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「推し」という概念の二面性~どうして私は推しを推すのか~

推しを推すとき、私たちは何に衝き動かされているのだろう。「好き」という感情を自身の内面に抱くに留まらず、声高に周囲に薦めてしまう推し活の源は何か。私自身に関して言えば、推し始めてからしばらく時間が経っている今となってはもう、「全部。そりゃ推しの全部だよ」と安易に言いたくなってしまう。聞かされた方からすれば、「だから具体的には?」である。

原点に戻り沼に落ちた瞬間を振り返ってみると、それは「雷が落ちた」なんて言うほど鮮烈なものではなかった。推しについて新しいことを知る度に少しずつ、心の奥底の、感情を司る大事な部分が浸食されていくような、あるいは時間の経過によって日陰に太陽の光が広がっていくような、じわじわとした何かだった。

どうして推しを推すのだろう。筆者の場合

もう少しだけ私の話を続ける。その頃、次第に知名度を上げていた推しグループの曲を「ちらりと耳にしたことがある」程度だった私は、たまたまTwitterのタイムラインで話題になっていた推しのラジオに関する投稿が気になり、後追いで聴いてみた。聴いたらそこでの生歌に痺れた。いつのまにか指が勝手に推しの名を検索してWikipediaを開き、一気に読んで彼らのだいたいのことを把握し、YouTubeで曲の動画を次から次に再生している頃にはもう、沼に足を突っ込んでいた。

推しに関するひとつひとつが私の心のひだにチクりと引っ掛かり、その感覚が忘れられずに彼らを知りたいという気持ちが私に夜な夜な動画を見させ曲を聴かせた。あるときには古傷を覆っていたかさぶたを剥がして傷の存在を自覚させ、あるときにはノックアウト級の球を打ち込んできて、またあるときにはそのすべてを癒やしてくれた。推しの曲も、声も、ビジュアルも、人柄も、知れば知るほど好きになった。

こうして唸りながら推しを推す気持ちの解像度を上げていこうと考えていたとき、私はひとつの仮説に思い至る。推し活を推し活たらしめているもの、それは「二面性」ではないか、と。

完成された作品【A面】と、それを作り出す人間性【B面】

今の時代に表現活動をしようと思ったらSNSの活用は避けて通れない。アーティストやアイドル、お笑い芸人や作家等々、多くの著名人がSNSで情報を発信している。そこに連なるのは、例えば新曲発売やメディア出演告知などの公式情報に留まらない。もちろん人によるが、著名人であっても日常の些細な出来事や感情の吐露を投稿する人は多く、推しのSNSをフォローしていればメディアの露出だけを見ているよりも推しを身近に感じられる。

リリースされた新曲を聴いてその一音一音に心をかっさらわれたり、テレビに映った表情を見て胸が高鳴ったり、必死の思いで手に入れたチケットを握りしめ、喜び勇んで足を運んだライブ会場でステージに立つ推しの姿に後光が射して涙が溢れたり。完成されたパフォーマンスに惚れ込むというのは推し方として謂わば王道である。これを【A面】とする。

対して【B面】を、例えばSNSや他にもファンクラブコンテンツなどの、より推し個人の人間性が強く滲み出る場所とする。そこでは、作品づくりの苦悩や努力、そして美学、ひとりの人間としての葛藤や成長、そして哲学なんかが垣間見えたりもする。クールなアーティスト写真や雑誌のグラビア、ステージでのパフォーマンスからは想像できないような愛くるしい一面が見られることも珍しくない。

そんなとき、推しが渾身の力で世に送り出した完璧な作品を鑑賞するときとはまた別の感情で、推しを愛でている自分に気が付くのだ。それは「応援したい」「見守りたい」「育てていきたい」といった、まるでわが子を思うような感情。推し活には、推しのカリスマ性と素顔、ファンの熱狂と親心、そんな二面性が内包されているように思う。

時代が変えたファン活動とその心理

現代の表現活動に付随する推し活には、推しが作り上げた作品を鑑賞する【A面】と、プライベートに近い姿や作品作りの裏側が見られる【B面】の両方があると述べた。しかし少し時代を遡ってみれば、ファンが好きなアイドルやアーティストを追うにはA面を受け取るしかなかった。作品を鑑賞したり出演しているテレビ番組を見たり、彼らの内面を知りたいと思って少し踏み込んでも、リーチできたのは雑誌のインタビューが関の山だろう。それだって、今より何倍も制限があったのではないかと想像する。彼らの心の内の片鱗や飾らない姿をファンが目にする機会はほとんどなかったはずだ。だからその頃のファンたちはきっと、完成された(今で言う)推しに対して、憧れたり熱狂したりするしかなかった。

メディアの多様化やSNSの台頭によって発信する側の手法と機会が増え、また個性を尊重し多様性を重んじるという世の中のムードも相まって、表現者自身も自分の人間性を開示しやすくなってきた、あるいはそうすることが自然と感じるようになってきたのではないだろうか。

私たち現代の推し活をするオタクは恵まれている。B面を知ることができる。私はそのことが、それこそが私たちを推し活へ駆り立てているのではないかとすら思うのだ。応援の形は、推しの完璧な姿に憧れ熱狂するだけだった昔のファン活動から、もっと推しそのものに寄り添い存分にその魅力を享受し、周囲に薦めてしまうほど高らかに愛を叫んではばからない現代の推し活へと進化した。

ひとりでは抱えきれない「好き」を放つ。これが私の推す理由

圧倒的なパフォーマンスに熱狂するだけではなく、推しのちょっとダメなところや弱い部分を知って「推しも自分と同じ人間なんだ」と親近感を抱くと、もっともっと応援したくなるのはオタクの性のようなものであろうか。より多くを知ることで想いが募ったり、感情移入しやすくなるのは人間の性か。それに、B面を知ってからA面を味わうとより推しへの尊さが増すのである。垣間見た推しの苦悩や美学に裏打ちされた作品への、そして推し自身へのリスペクト。好きに好きが掛け合わされ、加速度的に愛が深まっていく。作品だけではなく、推しの生き様に惚れる人が多いのは、現代のファン活動、つまり推し活の特徴のような気がする。

作品に加えてその生き様で感情を揺さぶられ心の深いところを魅了された分、昔よりも好きの気持ちに奥行きが増した。それを誰かにわかってほしい、伝えたい気持ちが高まり、いわゆる「布教」のような形で周囲に薦めまくる。ファン側もまたSNSを使って、自分だけでは抱えきれなくなった溢れる愛をインターネットの大海に放つ。「ほら、うちの推しはこんなにかっこよくてこんなに多才で、でもこんなに努力家でこんなに繊細でこんなにかわいくて、だからこんなに尊いんだよ」と。それは「他の人に薦めたいほど好き」という「推し」の概念につながるものではないだろうかと、私は自分の仮説にひとり頷いてしまうのだった。

あらゆる「推し」を持つ、すべての人に

ここでは推し活の対象を主にアイドルやアーティストなど著名な「人間」と想定して自説を展開してきたが、もちろん推しは「人間」に限らない。キャラクターでも動物でも食べ物でも仏像でも、すべて個人の自由。あくまでも今回の記事が「人間」の推しを想定して書かれたもの、というだけなので、「人間」以外の推しを持つ皆さまには、ぜひ自身の推しに置き換えて、「人間性」をその推しの「背景」などに置き換えて想いを馳せてみてもらえたら、この記事で言いたかったことをどこか感じ取っていただけるのではないだろうか。推しへの想いを分析していくこんな考察も、あなたの推し活のひとつとして楽しんでみてもらえたらうれしい。

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