フェリシモCompany

「他者とのつながりから生まれる未来のしあわせ~自分として生きる~」

作家

石田香織さん

開催日
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プロフィール

1976年、兵庫県生まれ。神戸市在住。会社勤務の傍ら96年より森田雄三創作塾にて創作を学ぶ。10年勤務した会社を休職したのをきっかけに小説を書き始め、2015年12月せめてしゅういち出版部より短編小説集『マトリョーシカ』を刊行。2017年河出書房新社より『きょうの日は、さようなら』で作家デビュー。二作目に『哲司、あんたのような人間を世の中ではクズと呼ぶんやで』(同社)がある。

※プロフィールは、ご講演当時のものです。

講演録 Performance record

第1部

石田香織さん

「#パフォーマンス」

パフォーマンスの様子

石田さん
「#朗読」
年明けの朝礼。三宮の山が見えて、青い雲が浮かんでる。ポートライナーの高架には若者がたくさん歩いてて、「正月気分が抜けへんねやろな。楽しそうやな」って見とった。その風景が見える窓を背にして、部長が朝から「ちゃんと保険売ってこいよ、お前ら。わかっとんか」みたいな、いつもの朝礼を始めた。なんやろなあ、そのとき急に涙が出てきて「ああ、もう無理やなあ」と思った。今まで何十年も、ずーっとずーっとがんばって生きてきたけど「いやあ、なんか無理や」、そう思うと急にもっともっと涙があふれて、それやのに不思議なことに仕事はできてしまった。涙流しながらいつもどおりパソコンを操作して、お客さんに電話したり、普通に仕事する私を上司が「石田、どないしたん、おかしいで。病院、行ってこい」。そのままドクターストップで会社に行けなくなった。

2、3カ月は布団の中にいた。子どもにご飯作って送り出して、子どもが学校行ったらまた布団に戻る。夕飯の買い物行って、夕飯作って、また布団に戻る。そんな生活を続けてたら、師匠の森田雄三が「そろそろ春休みやし、金出したるから、心配せんでええから楽ちん堂に来い」と東京に誘ってくれた。子どもと一緒に新幹線に乗って、旅行気分で楽ちん堂に行った。そこで師匠は言った。「まあ、落ち込んどってもしゃあないやん。石田、今、考えること、しょうもないことばっかりやろう。絶望しても仕方ないから小説を書け」、そう言って師匠は私に小説を書かせてくれた。最初は「怒られるから小説書いとこ」くらいの感じで神戸に戻って書き始めて、それを師匠に送ったのが始まりです。

今のは私が小説を書き始めた話ですが、ここからいろいろと作品の話などをしていきます。今日は石田香織の神戸学校ということで、うちの仲間に一緒に来てもらっています。アバンギャルズトリニティというグループでも活動していまして、冒頭に歌ってもらったのは私の作品をそのまま歌の世界に広げていくというものです。ギターと歌をしてくれたのが竹下士敦くん、そしてもう25年、一緒に芝居をやっている演劇集団のアバンギャルズというチームがあるのですが、その妙嶋誠至くんと一緒に神戸学校をさせていただきます。お願いします。

「#拍手」

妙嶋さん
小説が終わってからの続きの話は100パーセント現実の話なので普通にしゃべってほしかったのですが、小説みたいにしゃべるから小説の話かと思って横で聞いていたらまるっきりあなたの話だから。

石田さん
はい。

妙嶋さん
だって普通はおもしろいじゃないですか。精神壊れてしまって泣いているのに営業の電話をかけてずっと対応していたというおもしろい話ですが、なんかじっと聞いてしまったので。

石田さん
いつも芝居は即興でやっています。直前に今日の空気とかで打ち合わせして始めるのですが、妙嶋くんが「この作品のついでに何か話せたら」と言うので作品っぽく話した感じです。

妙嶋さん
そうですか、僕のせい、ありがとうございます。

石田さん
はい、あなたのせいです。

妙嶋さん
申し訳ないです。

石田さん
はい。まず何から話すかというと、私が小説を書くきっかけになったのは10年、つとめていた会社にうつ病になって行けなくなったというのが発端です。その時に、私の演劇の師匠は森田雄三という演出家なのですが、彼が「家にいても多分、絶望的なことしか考えないだろう」と、シングルで子どもをふたり、育てているのですが、「子どもふたり、どうやって育てていこう」とか「お金はどうしよう」と思うだろうということで、「まあ、小説書けや」「とにかく絶望するな」「自分が笑えるようになれ」と言われて書き始めたのがきっかけです。そこで最初に書いた作品はまだ世の中に出ていないのですが、作品を書くにあたってパソコンも持っていないし、私は中学校の時に引きこもっていて全然、学校も行っていないのです。本は好きで、引きこもっていたときは本や映像、CHAGE and ASKAが大好きだったのですがチャゲアスが友だちみたいな感じで空想したり本を読んだりしていたのですが、自分で文章も書いたことがありません。だから「文字を書く」というのがまず嫌だったので、メールの本文に雄三さんあてに小説とおぼしきものを書いて送りつけました。その時に雄三さんから連絡がすぐ来て、「石田、これはだめだよ。盗作だろ」と言われたから「盗作じゃないです」「じゃあ、その証明のために2作目を書け」と言われたのがデビュー作になる『きょうの日は、さようなら』です。

妙嶋さん
短編の方です。

石田さん
短編の『キョウスケとキョウコ』という話です。それを書きました。

妙嶋さん
持ってきているこの本は、とうに売り切れて世の中に存在しないと言われていた最初に書いた『マトリョーシカ』という短編集です。これが、普通に日常を歩んでいたのに生活が止まってしまって、森田雄三のひとことで小説を書くことで生き続けることができたというきっかけです。今回の神戸学校のテーマが「Turning Up(ターニング アップ)」と言われました。ターニング ポイントという言葉はありますが、そのポイントをさらにアップさせるという言葉だそうです。その時点というのは、いちばん日常でピンチを迎えて、泣いたまま日常生活が続けられなくなり、その瞬間の師匠のひとことからこれができ上がったということなので、折にふれ、これができるいきさつを、もう森田雄三はこの世にはいないのですが、石田香織の記憶の中をたどりながらここで共有できたらと僕も思っています。

マトリョーシカ

石田さん
それで『キョウスケとキョウコ』という短編を(師匠に)送りました。そうしたら「いいじゃん、おもしろいじゃん。もっと書けや」と言われて、それから師匠とのやり取りが始まり、30ページくらいのものを書いては送り、書いては送りしていました。2作目が『キョウスケとキョウコ』で後に『きょうの日は、さようなら』になるのですが、その次が『鳩』です。冒頭でこのふたりが歌ってくれたのが『鳩』という、私が今、朗読した作品からのものです。これができました。

3作目を送ったときに全然、おもしろくなくなっていて、師匠に「いや、これはだめだよ。石田、おもしろくねえよ。自分が神さまになってる」とおしかりを受けました。それは三つ、短編を書いたら「私の中にテーマがあるんちゃう? 」と何か意味のあることを書きたくなって「ひとりぼっち」みたいなテーマを掘り起こして書いたら、「こういう人がきっとひとりぼっちやからおるはずや」みたいな感じで、自分が神さまみたいに登場人物を駒として動かす小説になってしまったのです。普通の小説にはプロット、「登場人物はこういう人物だ」というのがあって動かしていくのが一般的なやり方ですが、もともとは演劇をやっていて自分の手ざわりのあることをずっとしてきたのに、まるで自分が上から見て(登場人物を)動かせる神さまみたいに書き始めたと。「それは石田らしくないし、森田雄三の演出らしくないし、それはほかの人にまかせましょう」、「もう1回原点に戻って、そういう書き方ではなく、自分の手ざわりのあることから一からやり始めよう」と言ってまた書き始めたというやり取りがありました。

3カ月で20作くらい書いて、短編を書き始めたときは保険の営業を休業していました。なので「この先、仕事どうすんねん」、「食い扶持はどうすんねん」となったときに、「じゃあ、せっかくこんだけいっぱい書いてるんやから、石田はやれることも少ないから小説家になろうか」というのが師匠との間で目標というか夢としてできて、そこで保険の営業スキルを生かして全出版社に電話をしました。「小説を書いているのですが持ち込みできませんか」と言うと、「今はなかなか小説がむずかしい時代で、マンガの持ち込みはしていますけれども小説は持ち込みできません」と全出版社に断られました。受付の時点で断られて、「じゃあ次、どうするか。書いた作品を本にまとめて送りつけてしまおう」という作戦を立てました。送りつけた中で一社だけがお返事をくださって、私が書いたものを「長編に直してはどうですか」というお話をいただきました。そこに至るまでも、ほとんどの出版社は無視するし、ていねいなところはそのまま送り返して来てくださるのですが、「これはどうやったら見てもらえるか」を師匠と考えて、「うまいこと電話して編集長のなまえを聞き出す作戦」を考えたり、それとなく電話して「編集長はどのようなおなまえですか」と言っても全然聞き出せないので、一社だけポヨっとした感じの女の子が出たので、「ああ、編集長、おなまえ、ちょっと、あれ? 」「*サトウ*ですか」みたいな感じで誘導尋問して聞き出した人あてにレターパックの署名がいるやつでその人あてに送りつけたのです。その人は自分あてに来たからたぶん仕方なしに、ちょうど年末で仕事が空いたから読んで返事をくれたという感じです。「保険の営業が生きたわ」みたいな。

妙嶋さん
ハハハ。

石田さん
スキルを使ってみました。

失敗談を語る石田さん

妙嶋さん
普通、こういう段に立たせていただいて、華々しく呼んでいただいてしゃべりだすと、なにかしらの成功譚を聞いているような気分がやってくるはずなのですが、さっきから失敗談をどんどん羅列されているような感じがあなたの特徴で、とてもいいと思います。

石田さん
成功も出てきますから。

妙嶋さん
成功も出てくるのですね。

石田さん
それで、そのように送りました。師匠の森田雄三と私の中では某編集長から電話がかかってきた時点で「よっしゃ、私たちはこれはもうデビューや」、「映画化もある」くらいの話にワーっとなっていて、原稿用紙30枚くらいの作品だったのですが、「とにかく石田、この30枚を300枚まで伸ばすぞ」ということでまた師匠とやり取りしながら長編を書き、嬉々として出版社に2カ月くらいで送りました。そうしたら、なしのつぶてで「あれ? 」と。連絡が来なくて「おかしいな。もうデビューしてるはずやぞ」みたいな感じになりました。それで再三、メールをお送りしたらやっとメールが来て、このようなお返事でした。「石田さんの書いたものは自分は好きだ。おもしろい。でも事件が起こらない」。この『キョウスケとキョウコ』という短編は『きょうの日は、さようなら』に続くのですが、これにはゲイの男の人が出てきて、「例えばゲイを出すなら、痴情のもつれとかもっと毒々しいゲイの出し方があるはずだ」、あとは風俗街が出てくるのですが、「もっと風俗の女の子たちの悲しいドロドロがあるはずだ」と言われて、「それを入れてもう一回、書き直してくれ」というオーダーがきたのです。それは森田雄三も私も「いや、それはできないな」と、「自分が信じていないことを作品に載せるのは無理やな」ということで、「もうお断りしよう」とお断りするというか、あちらから「お断り」と言っているのに、また「お断り」という、振られたのにまた行く変な女みたいになっているのですが、そんな感じでとにかく「もう、あかんな」となったときに、最後にその編集長が「でも、この作品は新人賞に出してみるくらいのレベルにはなっているから挑戦してみてはどうですか」と言ってくださったのです。

それで「じゃあ、そうしようか」というときに、たまたま芥川賞を取られた私たちの演劇の先輩であり森田雄三にかかわりのあった方がいらっしゃって、「今、河出書房の文藝賞の締め切りが近い」ということを教えてくださって、それで文藝賞に送りました。そのときに最終選考に残ったので、私と森田雄三の中ではもう「文藝賞、取った! 」となっていたのです。そして文藝賞を取ると芥川賞を取る人が多いので、「芥川賞、いった! 」と、もうそこまで私と師匠の中では話ができていて、ちょうど先輩の山下澄人さんも何回も候補になっていたけれど、まだ芥川賞を取っていなかったので「ダブル受賞や。石田、山下ダブル! 」くらい盛り上がっていたのです。でも、ふたを開けたら最終選考には残りましたが、賞は結局、もらえなかったのです。編集者からは、「(私の作品は)純文学ではない。ジャンル分けでいうと、どちらかというと中間小説だし、なかなかむずかしいのもあったんですかね」と聞きました。「ああ、これ何て師匠に言おう」と思って電話しました。「雄三さん、ごめん。文藝賞、取られへんかった」と言ったら「じゃ、何賞に残ったの? 」って。ハハ。「何も賞ないねん、だから」、「えっ、何もないの! 」みたいな感じになったのですが、そこに今度、この本の帯にもデカデカと私のなまえよりいっぱいなまえが書いてありますが、斎藤美奈子さんという、選考委員として書評家が4人いた中で、ひとり「石田さん」と推してくださって、選考のときも2時間くらい戦ってくださって「その日の夜も眠れなかった」、「みんなわからずやだわ」みたいになって、河出の社長に「この作品は埋もれさせてほしくない。それは惜しいからこれを本にしてください」という後押しをしてくださって本になりました。ここまでがデビューのざっとしたいきさつです。

妙嶋さん
『マトリョーシカ』のあとがきを昨日の晩に読ませてもらって、森田雄三がはっきり書いていたのは「才能があるから小説家になったのではない」というところで、「ただ、日常の生き方と書く視点が、捨てられた子どもの視点をずっと保っている。弱い者に寄り添うところを貫いて、それを作りごとではなく、自分の生き方がそうだったというところを正直に書いているところで健気」という言い方をしていました。だから今の話も一貫してサクセスストーリーの披露では決してなくて、結局、書くこと以外にできなさそうだから書きましょうということでここまで来たというところです。人が行き詰まる瞬間は多々あるので、そのときにできることをやっていくということと人とつながるということが今日のテーマです。

石田さん
今日は「自分として生きる」というのをサブテーマに書いてもらいましたが、もともと演劇をするきっかけの森田雄三。たぶん森田雄三を知らない人がいますよね。森田雄三はイッセー尾形という俳優のひとり芝居を40年以上にわたって演出していたお芝居の演出家です。イッセー尾形は15分か20分くらいのシーンをたったひとりで演じて、2時間くらいの枠の中で5、6人の人物をパンパンパンと演じてしまう芝居で海外でも評価を受けて、いまだにひとり芝居をやっている俳優です。

妙嶋さん
先ほどの話と同じで、ひとり芝居を目指してひとり芝居にたどり着いたのではなくて、劇団員がお金や時間がなくてみんな辞めていったそうです。それで残ったのがイッセー尾形ひとりだったというところもあって、「ひとりだったら芝居はできないのか」、「お金と時間がないから芝居をする資格がないのか」といって芝居に合わせて諦めるのではなくて、自分に芝居を合わせるということで、ひとりしかいないのならひとり芝居、舞台に何も装置を作るお金がないのなら舞台の装置はなくていい、時間がないのなら3日しか時間がない中でできる舞台を作ろうという、すべて自分に寄せてくるやり方でひとり芝居の第一人者にまでなったというところがいきさつです。

石田さん
それが演出家の森田雄三です。残念ながら一昨年の10月に他界したのですが、私は19歳から森田が死去するまでずっと森田に演劇を教わっていました。森田雄三は演劇経験のない普通の人たちと一緒に芝居をしようという演劇ワークショップを開催していました。19歳のときに神戸新聞に新聞広告が出ていて、「あなたも3日でイッセー尾形になれる」と書いてあって、そのころ私はアイドルを目指していたのでそれを見て「3日で有名人になれるってすごいやん」と思ってそのワークショップに行ったのが始まりです。それが震災の翌年でした。

15歳でアイドルを目指すまでの間というのは、中学校のころに引きこもっていて、とにかく自分自身がしんどかったというのがありました。学校に行ってもなかなかみんなになじめない、周りとの空気感が違う、いじめられたりとかいろいろなことがあったりして行けなくなったときに、ずっとCHAGE and ASKAのミュージックビデオを見ていたのです。そのときにASKAが大好きで「この人と結婚しよう」と決めたのです。「ちょっと待って。ASKAと結婚するにはどうすればええのか。アイドルになればええやん」とそのときに思いついて、アイドルになったら楽曲提供してもらってASKAと出会って。

妙嶋さん
(お客さまがメモを取られているのを見て)そこでメモ取るって何のメモを取るんです?

石田さん
ハハ。メモいいですよ。有名人と結婚するハウツーにはなるかもしれない。取ってください。

妙嶋さん
ハハ。取るとこちゃう。

石田さん
結構、ガチでASKAとの結婚生活を思い描いて、彼はロンドンとかにレコーディングに行っていたので「私はついていかないかん。英語習おう」とジオスに通い始めたりしました。そのためのファーストステップとして芸能人になることは必須だったのです。それで中学3年のときにタレント事務所の養成所に入りました。当時は時代劇を結構作っていて、今はさみしいですね、新しい時代劇が全然ないです。水戸黄門も遠山の金さんもない、私はめっちゃさみしいです。

妙嶋さん
ハハハ。みんな平気やん。そんなん。

石田さん
さみしいよ。

妙嶋さん
テレビがなくても平気な人じゃないの。

石田さん
みなさん、ちらっと見ているかもしれないけれど、あれは全部、再放送ですから。めっちゃさみしいです。もう新しいのがないので新しい話は見られないのです。私の趣味ですけど。当時は活発に作っていたので、時代劇のエキストラ、黄門さまにお茶を出して「お団子どうぞ」とか言って、「団子ばっかり食ってらー」「アハハ」みたいな仕事が結構あったのです。京都に通って撮影所でいろいろなエキストラをしながら、あとはイベントの司会とか、キティちゃんショーのキティちゃんの中に入って踊ったりもしていました。それはすべてCHAGE and ASKAのASKAを向いてやっていたのですが、そのように18歳までを過ごしました。

18歳のときに震災が起こりました。なかなか神戸も大変でした。まず交通が分断されて大阪に行けなくて、ちょっと震災の話にそれてしまいますが、当時、大阪の小さい劇団のミュージカルに出るので稽古をしていたのですが行けなくなり、電話をしたら「こっちも真剣に作ってんのに来てもらわな困るわ。真剣味が足りひんわ」みたいになって、2月でしたが福知山線を乗り継いで大阪まで行きました。いざ梅田に着いたら国生さゆりのバレンタイン・キッスが流れてチョコレートが普通に売られていて、神戸の瓦礫の状態とは全く違う状態で驚きました。だから「そうか、神戸の状況が見えへんから、あんなふうに『真剣にやってない』って言われたんや」とわかって、そういうことも想像できないし、親のすねかじって劇団をやっているわけですから親も困るということで「一旦、やめましょう」と(なりました)。19歳までの1年間はプー太郎でした。バイトをしながら、それでも「東京に出よう」と思ってタレント事務所に時々、履歴書を送ったりしていました。そういう状態のときに「あなたも3日でイッセー尾形になれる」という演出家の森田雄三のワークショップのお知らせを見て、それで行ったのが最初です。でも、自分は結局、ASKAと結婚するため、今のここにいない何か素敵なものになるためにアイドルになろうとしている、お芝居をしようとしているというのに、行くと、普通のリハーサル室みたいな稽古場でバレエもできるような鏡がある場所に杖をついたおっちゃんが、森田雄三は40歳で骨肉腫を患って片足が不自由だったので、いて、「ちょっとそこ歩いてみて」といきなり泥くさい感じで始まったので正直、「あれ? これ3日で有名人になれるやつちゃうやん」という戸惑いはありましたがワークショップを受け始めて、そのとき妙嶋さんもいました。森田の芝居は今、自分のいる現実をとにかく「本当にそうですか。疑いましょう」というものだったと私は(思います)。

妙嶋さん
あとがきには「親との関係ひとつをとっても、君たちの考えている親というのはマンガの世界の親だからな」というのが書いてあります。例えば、「本当に親に相談してみたときの親のリアクションは、自分たちが思い描いているものと全く違うリアクションが返ってくる。試しに、じゃあやってみるんだな」と、「お母さんに『私、妊娠した。ごめん』と言ってみたら」という宿題が出ました。「お母さんは何て返すかをある程度想像しながら言うと思うけど、その答えは絶対、君たちの思っているような答えじゃないからな」と言いました。別にそれを「無理やりやれ」と参加者の女性みんなに言ったわけではなくて、「それくらい想像と現実はかけ離れている」ということを伝えたかっただけだと思うのですが、彼女だけがそれを実践したのです。家に帰って「私、妊娠してん」とこの人、やらかしよったんです。

石田さん
そうです。

妙嶋さん
そうしたらどうだったか。

石田さん
その前に、女性の人で、もし自分が二十歳そこそこで結婚していなくて、親に「妊娠した」と言ったら(親が)何て言うかちょっと想像してもらえませんか。どなたか。では、前の人に(聞きますが)お母さんに打ち明けたら何て言われると思いますか。

お客さま
「ばかたれ」と言われると思う。

石田さん
「ばかたれ」ね。何て言われると思いますか。

お客さま
「とりあえず相手の人を連れてきなさい」と言われる。

石田さん
いいですよ、それ。

お客さま
「どうするの」と。

石田さん
「どうするの」ですよね。最初は何でしたっけ。

妙嶋さん
「ばかたれ」か。

石田さん
「ばかたれ」「どうすんの」「相手は誰」とか、私もその想像をしていたのです。そういう「心配してる」みたいな感じです。今日、うちの親も来ているのでお母さんの前で言うのは「ごめんね、お母さん」ですが、「ざまあみろやわ」と言われたのです。「へ? 」ってなったら「お母さん、今までな、いろいろなことあんたに教えてきたやろ。それをな、聞かへんねん、あんたは。ずっと聞かへんねや。だからざまあみろや」と言ったのです。それでそのあと何が来たかと言うと「お母さんも若いころな」と自分の思い出話が展開されたので、私はもう「ええー」となって、すごいショックで家に帰ったと雄三が書いています。

妙嶋さん
みなさんは人生の経験が少ないからあなた方が想像する大人はマンガです。嘘だと思うなら親に「妊娠した」とか「妊娠させた」とか言ってごらん。親の反応はみなさんが思っているのとは全く違うから。親の反応が現実であって、子が思う親の反応の想像が勝手な思いであり、マンガだと伝えたかった。30数名いた参加者で実際に親に妊娠したと告げたのは石田さんだけだった。彼女が言うには、母親の開口一番の言葉は「ざまみろや」だったとか。その母親はシングルで5人の女の子を育てたらしい。母親が性教育したのに香織さんが聞く耳を持たず、バカにするからの意味でのざまみろということだったらしい。香織さんの母親は子育てや仕事でただならぬ苦労をしたのだろう。「香織、じゃ母ちゃんが妊娠したらお前がめんどう見てくれるんかいな」と続いたという。「相手の男は誰」「一緒に病院に行こう」と親が言うだろうと想像していた香織さんは「母親は私を愛していない」とひと晩眠れなかったそうだ。

石田さん
ということがありました。だから、普通の演劇でいうとさっきのが正解で、テレビドラマだったらそう展開していくけれども、人それぞれの生きてきた道や親子関係が違う中で、やっぱり人ってひとりひとりが違っていて生なのです。そのことを森田は教えてくれました。

それと、愛情は一個だけと思いがちです。何か起こったときに、(例えば)「妊娠した」のときに「大丈夫? 」と言うのが愛情だと思うけれども、それぞれに愛情の表現の仕方は違うというのも、ここですごく「おおっ」と思ったのです。森田の芝居の作り方は「その人だから言えるもの」「ひとりひとりが違うということを引き出していく」というものなのです。

妙嶋さんとテーマについて話す石田さん

妙嶋さん
参加者のみなさんにいちばん嫌いな人の顔を思い浮かべてその人の口調をまねしてもらうというのは、いちばん繰り返されたテーマでした。これは仕事をしている人であれば簡単に、3秒でできるし、笑っている人は多分できちゃう方ですよね。もう何となく思い浮かんでいるでしょうけど、学生さんとか。僕は当時、「中身が学生」という言われ方をしましたが、留学までして帰ってきたけど、演劇の勉強も含めて社会で嫌いな人とどうしても一緒にいなければいけない時間というものが僕にはなさすぎて、「嫌い」と言ったときにパッと思い浮かばないのです。それは何か人がよさそうに聞こえる部分ではあるけれども、はっきりと現実に地に足をつけていないので引き出しがないのです。でも、社会でいろいろな仕事で、特に責任を持った仕事をしないといけない人は「こいつとは一秒たりとも一緒にいたくない」という人とも多分、一緒に過ごさなければいけない、やり過ごさなければいけないことでこびりつく何かがある、それをやってみましょうというのが、いちばん演劇的に近道だということをよくやっていました。そして、もし大嫌いな人のものまねをしてウケたとき、その大嫌いな人に対しての気持ちもちょっと変化して、ちょっとした愛情がそこに芽生えていくといったことを世の中に広めていこうとしていた部分があると思います。

石田さん
何かやってみますか。誰かやってみる?

妙嶋さん
誰で? 僕?

石田さん
誰か、やってみたい人はいますか。嫌いな人を想像してちょっとお芝居をしてみませんか。これ結構、効きます。雄三さんと芝居作り始めて、「嫌いな男、やってみろや」というのがあって、嫌いな人をやったら「それね、君が愛してる人」という意外な発見があります。

妙嶋さん
次の質疑応答のときにでもかまわないです。

石田さん
そうですね。やりたい人はあたためておいて「やります」と教えてください。本当に意外です。

妙嶋さん
森田雄三は全国をまわりながら「3日間、稽古したらもう舞台に立てるから」という稽古をしない演劇を全国でやっていました。だからファンの人が各地にいて小説を書いたり歌を作ったりいろいろなことを今も続けている中で、石田はデビューにまで至りましたがデビューに至らない人もたくさんいる中で、そんな活動が人の知れない水面下であったというところが森田雄三という存在のひとつです。

石田さん
昨日、中居くんが(ジャニーズ事務所を)退所するという会見があって、(ジャニーさんの)遺骨を持って来ていたので、私も今日、師匠を持ってきています。デカい!

妙嶋さん
だからなんなん。

石田さん
引くやん。いや、中居くんつながりでちょっとウケるかなと思ってウケませんでした。すみません。ハハハ。

妙嶋さん
どこに行くのでも骨を持ち歩きながらですね。

石田さん
持ち歩いています。それくらい森田雄三という人が私にとって大きい存在でした。2作目の『鳩』という作品がありますが、『哲司、あんたのような人間を世の中ではクズと呼ぶんやで』に書いた、冒頭で父親にニワトリと言われて育つ男の子の話です。父親が「子どもは牛や豚と一緒や」とか「ニワトリ」と言う過激な、今にしたら「ネタになるからありがとう、お父さん、おもしろいわ」だけど、そういう家でした。なので、自分に全然、価値がないと思っていたのです。何て言うかな。

妙嶋さん
人に言えるようなことではなくて、恥ずかしくて閉じこめておかないといけないような。

石田さん
そう、それ。でも自分が最初に出会う人間って親じゃないですか。その親が「あなたに価値はないです」と子どもにはっきり表明すると、子どもはやっぱりそれは本当のことだと思いますよね。だから「そういうもんや。自分は何も価値がない」と思っていたのです。だからこそASKAと結婚してすごいジャンプアップをして、いい世界に行ってみんなに認められたいというふうに飛躍していったのかなとも、後づけですが思うのです。

そういうふうに思っている自分に対して、森田とワークショップをする中で「一体、自分はどういう人なのか」というのを徐々に思い出していったのです。森田はとにかく「働け」と。アイドルになるというのは、「石田、アイドルになれねえよ。鏡、見てみろよ。出っ歯じゃん。出っ歯ならアイドルになれねえよ」と言ったのです。森田と一緒に演劇をする中で、例えば母に「妊娠した」と言ってみると人間は(予想とは)全然違う答えが返ってきたり、自分の嫌いな人をやってみたら自分がその人を嫌いなのではなくて、何かが引っかかっていて、その人を実はとても気にしているというのがわかりました。人間、ひとりひとりとつながっていくみたいな、出会うというか。それまではいつか私はアイドルになるから現実の人とは出会わなくていいのです。ここではないどこかに行くのだから、何もひとりひとりと出会う必要はなくて、当たり障りなく、もしくは目を背けることができたのですが、ひとりひとりとちゃんと出会う、この人はどういう人なのかというのを与えてくれたのが森田雄三です。

次回作の話をする石田さん

妙嶋さん
出っ歯と言われたことをいまだに気にしていますが、当時はトラウマになるようなツッコミ方で「お前、せっかく歯、出てるんだからよ。もっと歯茎出してしゃべれや」と言って、出っ歯をさらに強調させてキャラクターにまでしろと。底辺の概念は「欠点こそが魅力だ」ということで、言葉にすればきれいごとですが、当時の二十歳になっているかいないかの、まだアイドルを真剣に目指している、自分がちょっといいと思っている彼女に「お前、歯、出てるんだから歯出せや」と言って、それでお芝居をさせようという。でも、実際にそれを彼女は、いろいろな葛藤があったと思いますが、やめた側ではなくて乗り越えた側なのです。出っ歯を出して。

石田さん
そう、やっていましたね。

妙嶋さん
現場労働の親方のキャラクターを、ここにチョビひげ描いて。神戸新聞にも載りました。

石田さん
森田の芝居の手法として、先ほどイッセーさんがひとり芝居を始めたのはイッセーさんが劇団の中でたったひとりの俳優になってしまったからというのがありましたが、(私は)アバンギャルズという演劇集団でやっていて、男子がいなくなって女子だけになったときがありました。そのときに「女子だけでできる芝居なんかないやん」みたいになったら、森田が「じゃあさ、君たちさ、汚い女子が集まってんだからさ」、あんまりきれいじゃないっていう意味ね、「男やれや、みんなが。汚い版、宝塚やろうや」となって、そのときいた女子全員がチョビひげ描いて、顔を汚して、おなかにわたとか詰めて現場のおっちゃんだとか、あとは。

妙嶋さん
ニッカポッカを女子全員がはいて。でも意図は簡単で、「職場でどんな女性も多少なりの、もしくはものすごいセクハラ受けてんだろ。男の人からいろいろな言葉での、もしくは直接、肉体的なセクハラを受けてんだろうからセクハラする側に回れや」と言って、顔を汚して現場労働の格好をしてセクハラする側をやりました。やってみますか、いいですか。

石田さん
いいです。でも、それはみんな生き生き芝居ができたのです。私はもう43歳なので全然、顔が汚れていても外に行けますが、そのころは実際、顔を汚すってなかなか、「きれいじゃないとあかん」というプレッシャーをすごく受けていたのです。だから顔を汚して、しかも贅肉は敵ですよね、女子にとって、でも贅肉をわざわざ作っておっちゃんの芝居にするというのは、自分がいかにそのことに縛られているかが表面化するというか。でも、それは24年前なので、見ている人が引いてなかなかついてこられなかったというのがありました。

その後に森田雄三と作った芝居では犯罪を取り上げました。当時、小学校の校門に首を置く事件とかお受験殺人を覚えていますか。

妙嶋さん
子どもの死体をかばんに入れて持ち歩いていた。

石田さん
殺して死体を持ち歩く犯罪者側をやってみようという芝居もしていました。でも、当時はやっぱりみんなにとってはショッキングで「これは笑っていいのか、あかんのか」という葛藤がお客さま側にもあったのか、なかなか。おもしろかったしよかったです。有意義でした。そこで森田がよく言っていたのが「どうして犯罪を犯しちゃいけないの」ということで、「人が悲しむから」「被害者が出るから」とかではなくて、「自分なりの『どうして』という答えを見つけていくのが作るということ、創作や」ということを森田は言っていました。「いや、それは許せない」となったら、もうそれは「じゃ、君、作る資格ないよね。演劇する資格ないよね」ということをそのときに言われました。今でも日常生活で何か起こるたびに、今、起こっていることで一般的に一回ポンと思い浮かんだことは間違いとしてほかのものが思い浮かばないか、「どうして」と考え続けるという話です。みなさん、どうですか。ついてこられてますか。フフフ。ありがとうございます。時間、あと15分か。

妙嶋さん
言いたいこと言っとかな。

石田さん
全然、関係ない話ばかりしていた気がします。すみません。

妙嶋さん
関係なくはないけど、とにかく直接はいちばん立場の弱い人に必ず寄り添うということで作品が立ち上がっているというところなので、犯罪者の芝居も本来は石をぶつけられる側、非難される側ですけど、それをくみ取りながら、演劇だから許されるという自由さで寄り添ってみたら何かできるかなというところです。

石田さん
ずっとそういう演劇的な視線で会社員として普通に働いているのです。いちばんおもしろいと思ったのが、やっぱり自分がそこに立たないとわからないことだらけなのです。保険の営業は実際、自分が「保険屋さん」と呼ばれて、ちょっと下に見られていますよね、「保険屋さん」という言い方が「失礼だわ」と思うのですが、そういう立場にならないと結局、本質的なことがわからなかったり、(うちは)母子家庭ですが、母子家庭にならないと本当の母子家庭というのがわからなかったりしますが、そこに着地するとわかるというおもしろさなのです。それを演劇なり、書いたり、ここでしゃべったりすることで、読んだ人が私と一体になれたら、「母子家庭の人はこうなんや」となったら、次の日からそういう世界が広がるというか、その中でそういう人と出会うというのがあると思うのです。

次回作は母子家庭、シングルで子育てをしながら働いている女性の話です。最初からテーマは決めませんが、書いていたらやっぱり私の言いたいテーマが入ってきます。それとか、こうやって今、みなさんの中にいたら、みなさんからもやっぱり空気を受けて書くということをします。次は朝日新聞社から出ますが、その作品は「助けて」と言えない人がテーマです。仕事をしたり、大人になったら人に頼るのはすごく悪いことと感じませんか。「助けてと言わずに自分で達成することに意味がある」、「自分が勝ち取ることに意味がある」と思うと、なかなかちょっとしたことに「助けて」と言えなくなります。そうしたら、やっぱり人間ってそんなに強いものではないからしんどくなってくるのです。自分がキュウキュウして、そうしたら余計「助けて」と言う余裕がない、そしてまたしんどくなるというループの中にいる人っていっぱいいると思うのです。そのことを、ただ単に私が母子家庭をよく知っているからそれを題材にして書きました。「助けて」と言えない人が次の本のテーマです。というか私が書いていて出てきて、周りの人を見たり、生きていて感じるテーマなのです。

それはもう書いたので、5月くらいに発売になるのでぜひ見てほしいのですが、それを今度はもう一歩進んで人に助けてもらう生き方、みんな助けてと言ってもらうと。それに気づいたのが、私はふたり、子どもを育てていますが、私の時代からそうですが今の子どもたちは不登校も多いし、娘が育っていくにあたって、すごくみんなの手を借りているのです。それはべったりと、例えば誰かひとりの人に一緒に子育てしてもらうという意味ではなくて、うちの演劇関係の人たちひとりひとりがちょっと子どもに声をかけてくれるとか、ちょっと「何かご飯、食べに行こか」「どうしてんの」と言ってくれることでうちの子どもたちに無数の手助けをしてくれていて、うちのふたりの子どもはすごく地球、人類みたいなものを信用できているのです。いろいろな人が表面的ではなくて、肌ざわりのある、それぞれのアプローチで彼女たちをちょっとずつ励ましてくれます。それは本当に祈りみたいなもので、そういうものを投げかけてくれることで助けてくれる、そのことを次の作品には書きたいと(思います)。誰かといるからこそ手ざわりが起こります。今、みなさんも「石田香織、誰やねん」という感じで来てくださって、でもこの90分の時間、多分、「石田さん、がんばれ」と思ってくれていると思うのです。「なんとか楽しもう、みんなで」みたいなそういうやさしさ、フフ、ありがとうございます。そんな感じで次、まだ今、書きかけで半分も作品はできていませんが、そういう何にもないようなことで、誰かが肌を擦る、ちょっとふれ合って生きていくというようなことを書いています。次の次の段階の「人に助けてもらう」というテーマで書いている作品を読みたいと思います。

余談ですけど、本を出版してから書店に目が行くようになって、「本屋さんって大変やな」というのは思います。でも、本屋に行くと自分で見て選んだりする楽しみもあるし、あとはうちの子が本の読み聞かせに参加するようになって、そうしたら彼女の中で彼女だけの本と出会って、彼女の世界というのが広がってきて、それを読んでみたら「おもしろい。また、これ」という楽しみがひとつ作家になったり、今日も来られていますが、書店さんたちにも本当に助けてもらっています。そういう感じで最近、読み聞かせをやっていて、(こちらは)うちの娘ですが、彼女をテーマにした作品なので彼女に読ませます。

娘さん
「#朗読」

竹下さん
「#歌」

ギターを弾く竹下さん

石田さん
ありがとうございました。そろそろかな、あと3分。そのように自分の中に実感や肌ざわりのあることをこれからも作品にしていきます。今は障害者施設で支援員として、ふだんは週5日、1日9時間、働いています。なぜそこで働き始めたかというと、作品に今後つながっていくのでお話しますが、世の中で自分の知らない人たち、自分と区分けして生きている人たちがいるということを自分がうつ病になって思ったのです。そのことをもっと自分が知るべきだと思いました。それと、今は障害者施設ですが、世の中に混ざって生きていく、仕事をする、子どもがいるのでお金を稼ぐという中でちゃんと生きて、そこから自分が見てわかったことを作品にする、フィクションなのでそのまま書いたりはしませんが、そうすることで将来、自分の目標としては垣根をなくしていくようになればいいなと(思います)。絶対、分断されて垣根はあるのだけれども、私の作品を読んだ人がいろいろな人に目が向くように、私がそうであるようにしていけたらと思います。それは作家になってからこの3年間、自分が芸術家みたいな作品を書いていくというふうに、机だけに向かうというふうになったときにすごく自分に違和感があって、やっぱりちゃんと生きて、ちゃんと自分が苦しんで、ちゃんと現実を目の当たりにして、もうASKAとの結婚は捨てて、でも喜ぶということで何か生まれていくように切磋琢磨して、これからも生きながら、工夫して空いた時間で作品を書いていきたいと思います。以上です。ありがとうございました。

石田さんの書籍

第2部

フェリシモ
第2部もどうぞよろしくお願いいたします。

石田さん
お願いします。

フェリシモ
第2部ではお客さまからいただいたご質問にお答えいただきます。それではいただいたご質問の中からいくつか私が代読いたします。*ソレイヌ*さまからのご質問です。「本日のテーマ、『他者とのつながりから生まれる未来のしあわせ ~自分として生きる~ 』について惹かれて来たのでそこをぜひお聞きしたいです」とのことです。石田さん、いかがでしょうか。

石田さん
まず「自分として生きる」というのは、先ほどもそれをテーマに話していたのですが、自分ではない自分の方が心地よいのではないかと思ってずっと生きていたのです。自分がアイドルになるだけで花が開く、ASKAと結婚するだけで別の人生が開けるみたいなものがいいと思って、要するに現実から目をそらすということですよね、生きていたので、森田雄三と出会って初めにしたのが就職でした。

働くといろいろなトラブルが起こり、逃げられないから自分がそこに直面せざるを得なくなるのです。例えば、ハムスターが死んだのです。めっちゃかわいがっていたのでショックで、それでも仕事には当然、行きます。二十歳のときです。「えーん」とベソかきながら仕事をしていたらパーっと先輩が来て「どうしたん、どうやったら元気でんの? 」と言って「えーん」と泣いていたら「2000円あげるからはよ買うてき」みたいな感じで励まされて「そんな2000円いらん」みたいなことがありました。そういうことは空想の中でASKAとの結婚を夢見ていたときには想像もつかなかった会社でのできごとだったりして、そうやってその人とまた別の関係もできていくというようなことを日々、働いていく中で発見したということです。それが「自分を取り戻していく」というか「現実を見つけていく」という感じです。未来はやっぱり今、ここでのことが明日につながっています。みなさんがいるから私がここで話せるわけで、今日、こうやっておひとりおひとりと顔を見合わせながら私がここで話させていただく、そうしたら「うん、うん」と反応してくれる、そのことでまた私の心に何か生まれて明日からまた生きるから、この瞬間、今がすごく自分の中で(あります)。

『哲司』という2作目を書いているとき、「小説家」というものになって、自分が何か別の次元にステップアップしたような気になり、「そうせないかん」と思いました。でも、自分は変わるわけでもなく、今まで森田雄三とお芝居をしながらみんなの中で創作をしていて、たったひとりで自分の才能を掘り出していたわけではないのですが、そのとき私はすごく孤独になったのです。ひとりで机に向かって小説を書くのは孤独です。仕事もきちんと決まっていなかったし、収入もないし、子どもを食べさせていかなあかんという孤独もありました。そのときにTwitterとかで「誰が読むかもわからん。けど、言いたい」みたいな状態がわかったのです。そこでこの物語を書き直して、主人公があてもなく、ただパチンコ屋の隣にいたというだけの豊田さんというしゃべったこともほとんどない人に手紙を書くという形式にしました。言いたいけど、誰かに言ったところで「わかる、わかる」と言われたくもないみたいな、理解されない孤独を書きたいと思って、そのときは自分の中でそのテーマでした。でも、書いていくうちにやっぱり人といたいというふうに芽生えてきて、でも、明日もみなさんと会って、明日も明後日もずっとというのはしんどい。ただ、今、ここにいるとき、目の前のひとりひとりに対してその時の、一夜限りでもその時は絶対誠実でいようというのは決めたのです。今日、みなさんとひとりずつしゃべれないけれど、みなさんに対して誠実でいる、そしてそれを明日も続ける、そういうふうに人と出会って世界が作られていく、それが人とともにいる未来だと思います。

『哲司』という2作目を書いているときの話をする石田さん

フェリシモ
ありがとうございます。他者とのつながりということでお答えいただいたので、関連する質問で匿名の方からご質問をいただきました。「私も周りの人、特に家族や友人、職場の人たちに『助けて』と言えずにひとりで抱え込んでしまって苦しくなることがよくあります。いろいろ考えすぎてしまって助けを求めるのがむずかしいのですが、どうすればもう少し思い悩まずに手助けをしてもらえるようになるのでしょうか」。

石田さん
これはむずかしいですよね。子育てをしている知り合いと話していたのですが、お母さんである以上、お母さんとして自分が絶対にちゃんとしてあげることが愛だと思ってしまうのです。だから、私がひとりでガーっとやることによって愛や努力、いいお母さんとしての証明ができるとか、あとは仕事をしていて自分の持ち場を完璧にこなすのが社会人としての立派な姿というふうに思います。そうでありたいとは思うのですが、やっぱりそれは絶対的に無理なのです。そこでどうやって「助けて」と言うかというと、「私は完璧でなくてもいいと思う」ということです。できないのです。「だって人やから」というふうに自分を許してあげるということかもしれません。「ちゃんとしたお母さんでいないといけない」と思っている自分を許してあげます。そうじゃなくてもいい。

子どもがいない人にもほかに置き換えてぜひ届けばいいと思うのですが、私はうつになって、食うや食われぬような経済状態になって不安だということを娘たちにずっと隠していたのです。でも、娘たちはやっぱり「ママ、おかしい」というのはわかるし、お仕事に行っていないというのもわかります。どれだけ借金があるかも全部、隠していました。そうしたら去年、「自分がちゃんとしたお母さんでいたい」というのと「ちゃんとできていない」というバランスがすごくしんどくなって、ふたりを呼んで「悪いな。うちにはこれだけ借金があります。家賃はこれだけかかります。ママの仕事は今、なくて、こんな状態で仕事を探しています」と洗いざらい話して「だから一緒に家族として、チームでぜひ戦ってください」と娘たちにまず言いました。それは母親像みたいなものを放棄したということなのですが、「ぜひ助けてください」と言いました。「その代わり、一緒にチームとしてやるからには、いつかふたりに私を助けてくれた恩返しをさせてください」と、家族の「お母さんと娘」というのはもう捨てて、チームとして石田家の運営をするようにしました。「自分はできない」と言う、そしてちゃんと誰かに助けを求める、それはすごくむずかしいけれど、「助けて」と言って誰かに肩代わりしてもらうことは、まだ先、娘たちがどんな子になるかはわからないけれども、これから結婚して会社に行くというときにひとりで抱えずに人に助けてもらうのは絶対的に大事だし、夫婦になったとき、誰かと会社でチームになったときに助け合う癖がついていた方がいいと思って、これは娘たちのためになると信じています。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。それでは次の質問で、お二方から似たような質問をいただいています。「肌ざわりを大切にされていることがよく伝わりました。施設でお仕事されているということにびっくりです。そのお仕事と作家さんと役者と、どのような時間の使い方をされているのか教えてください」というご質問と、*カオル*さまからのご質問で「お仕事と演劇と作家、さらにシングルマザーとして多忙な日々と思いますが、どんなふうに時間管理をされているのでしょうか。自分に環境を合わせているのでしょうか」というご質問です。石田さんいかがでしょうか。

石田さん
作戦を全く立てられない人間で、だからタイムスケジュールは昔から苦手です。そういうのがとうとうとできる人だったら多分、こうなっていないです。そういう人はASKAと結婚するとか言わないです。私が今、決めていることは優先順位で、働くことです。食べなければいけないから働くこと、そして娘たちのこと、その次に創作があります。でもこれが不思議で、働く、施設に行ってひとりひとりとちゃんと出会っていくことと、家の中で娘たちが抱えてくる問題を「はーっ」となりながら退治していくことと創作はつながっているのです。ただ、やっぱり文字に起こしていく時間は絶対的に少なくはなっていますが、常に、仕事する自体も私の中ではもう創作のひとつなのです。その目線でいくとおもしろいことが発見できるのです。施設で軽度の知的障害の人たちと一緒にいるのですが、この前、遠足に行きました。15人くらいを3人で連れていったのですが、地下鉄の近くのスーパーでひとりが急に逃げ出したのです。ダーっと走って逃げて、「えーっ」となって私が猛烈に追いかけて行きました。めっちゃ足が速くて「待ってー! 」と言いながら売り場をふたりでグルグルグルグルーッと回っていたら、「あ、トマト88円」とか関係ないことに目が行って、結局、トイレに行きたかったらしいのですが、彼女はそういう気の引き方をしてしまうのです。トイレに行って帰ってきたら「おしっこしたかっただけやし」、「もうしゃあないな。はい、帰るで」みたいな一連のことも、もう私の中で物語なのです。だって、そんなワーッてなっているときでも人ってトマトとか見てしまうんですよ、「88円」とかね。帰りに買わないですよ。あと、彼女がトイレに入った後で、彼女がどれだけ私の気を引くためにぐるぐる回ってトイレに行ったかも想像します。そうしたら彼女が何で人にそういう気の引き方をせざるをえなくなったのかという過去までやっぱり想像してしまいます。だからすべてが創作につながります。でも、これは何を作るときも絶対、応用できると思います。時間の配分とかではなくて、働くこと、子育て、全部が創作という感じです。

フェリシモ
ありがとうございます。石田さんはふだんのお仕事や家庭のことをすべて創作に生かしているとのことですが、それに関するご質問で「石田さんの作品の独特で個性が強すぎる登場人物がとても好きです。実際のモデルはいるのですか」という質問です。いかがですか。

石田さん
モデルはいると言えばいます。ただ、そのままではないです。例えば、『きょうの日は、さようなら』で、主人公のキョウコの義理のお兄さんでキョウスケというのが出てきます。それがもうあかんたれで破滅的な生き方をしている男なのです。ハーレーみたいなデカいバイクに乗っていて銭湯で会うのですが、何で彼が出てきたかというと、私の友だちでデカいバイクに乗っていて、よく銭湯でばったり会っていた友だちがいるのです。その友だちがいろいろなトラブルに巻き込まれて結局、病気で病院で死んでしまうのですが、『きょうの日は、さようなら』を書くときに、最初に書き始めたのが海の見える病院の屋上で男女ふたりが座って何かを話しているところで、それは彼とよく病院の屋上でポツポツ話していたからその発想が浮かんだのです。それで、このふたりが私と彼ではおもしろくないので、「このふたりは何なん」となったときにこのふたりの幼少期を想像して書くのですが、そのときに発想を与えてくれた人のちょっとしたクセであったり、バイクを乗り回して破天荒だったこととかはエッセンスになります。ただ、別の人物に育ってはいくのですが。その彼は全然、男前ではないですし。自分が書くときに「男前の方が楽しいやん」みたいなところもあります。キョウスケは自分の理想のあかんたれの男で、あかんたれで男前って最高ですよね、フフ。だから、そんな感じで誰かの特徴的なクセを書き始めて、そこから自分の創作を広げていくということです。

きょうの日は、さよなら小説について語る石田さん

フェリシモ
ありがとうございます。引き続いて、小説を書くことについてのご質問にいきたいと思います。*アイ*さまからのご質問です。「書くことが苦手ということでしたが、短編、長編の作品を書くにあたって工夫されたことがあればお聞きしたいです。どのように書き出していかれたのでしょうか」。

石田さん
最初の話のところで言いましたが、プロットは立てず、自分のイメージのある所から書き出します。『きょうの日は、さようなら』なら、最初にできたのは屋上で男女がふたりでいるというところです。『哲司』のもとになったのは『鳩』という小説ですが、これを書き始めたきっかけが私が会社を休職することになったことと(関係していて)、引くような話ですが引かないでください。保険会社の窓口にいたときに何回も刑務所に入っては出て(を繰り返して)いる結婚詐欺師のおっちゃんが来ました。(刑務所を)出てきて私と出会ったときはもう七十代で、資産運用を持ちかけてきて結婚詐欺をしようとしたのです。確かに「10年前やったらちょっとええ男やったんちゃう」みたいなおっちゃんでしたが、本当に普通のおじいちゃんです。それで「俺はさみしいんや」みたいな話をいろいろとするから、私は「かわいそうやな」と思って、その人に「演劇したらええやん」とかアドバイスを言っていました。お客さまとは土日もかかわって、いろいろなところに行って、超、営業の仕事をしていたのですが、土曜日に「保険に入りたいから健康診断書を持って行くわ」とその人に言われて、三宮のマクドナルドで待ち合わせました。そのときもおっちゃんは私をなんとかだまそうとして「結婚したい」とにおわせてお金を取ろうと思ったみたいなのですが、私が「ワークショップがいついつあるから絶対、来てよ」と言ったら「無理や」と思ったみたいで、携帯を盗んで逃げたのです。その盗み方がプロで「携帯忘れた。どうしよう、娘に電話しなあかん」とパニクる芝居をして、「今、ちょっと電話するのに借りていいかな」と言うから「いいですよ」と貸したら、「あ、電波が、電波が」と言いながらマクドを出て行ったのです。業務中にそのことが発生したがために会社からいろいろ理不尽な感じになって、余計にうつになってしまいました。後々、警察が(おっちゃんを)つかまえて、結婚詐欺師で何犯もしていて、刑務所から出てきてお金がなくなってなんとか日銭を稼ぎたいと思って(窓口に)来ていたから逃げたということを聞いて、「そのことを話してくれたら一緒に役所でも行ったのに」と思うのですが、せっかくそのおっちゃんに会ったから、「おっちゃんがそうしなかったらどんな人生があったのかな」という想像から『鳩』を書きました。冒頭で読み上げた「俺はホームレスはできひん」という話は、おっちゃんが新開地あたりで詐欺をしないで生き抜いていくにはどういうふうにしたら楽しいかを想像して書いたものです。こんな話、引いちゃったかな、ハハハ。そんな感じで自分の身に起こったことを全部、作品にしていますって何の質問でしたっけ、その話を忘れちゃった。

フェリシモ
短編、長編の作品を書くにあたって工夫されたこと。

石田さん
そうです。そういう人生に飛び込むというのが工夫です。ハハハ。とにかく飛び込んで生きるということです。そこから無駄にせず拾います。それと出会った人ひとりひとり、憎んだりすることもあります。おっちゃんがいなかったら私はいまだに勤続十何年の会社勤めができていますから。でも、何でその人が自分を苦しめることになったのかというところを、おっちゃんに愛情を、本当に愛情になっているかどうかわからないけれど、自分を苦しめた人をどうやったら愛せるかというところに立つということです。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。私生活のさまざまなことを小説に生かしているということですが、「石田さんが影響を受けた作家さんがいらっしゃれば教えていただきたいです」とのご質問です。本などからも影響を受けて作品にされたりすることはございますか。

石田さん
引きこもっているときにものすごく本は読んでいます。でも、一番はやっぱり森田雄三です。『人生は、なんとかなるものである』という森田の本も持ってきていますが、演出家の森田雄三が10年以上に渡って毎日、『森田雄三語録ブログ』を書いていました。誰かからの質問を受けてその答えをブログに書き、無料で公開していて、3000点以上を書いています。それは質問に対してそのまま答えるのではなくて、「こういう見方がありますよ」という目線でいろいろなことを書いていて、毎日、師匠が夜中にアップしていたので読んでいました。だから、自分の苦しみとか悩みに対して「こんなアプローチの考え方がある」というのは森田雄三語録ブログで学び、いまだにヘコんだときは(読んでいます)。亡くなった後もオープンになっていて読めるので、ご興味がある方はぜひ読んでみてください。過去のものを探って読んだらおもしろいと思います。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。私も読んでみようと思います。

石田さん
お願いします。

フェリシモ
話を聞いていて個人的に気になったのですが、もし今の石田さんが娘さんがもうちょっと大きくなられたと想像して、「妊娠した」と言われたら何て言われますか。

石田さん
私はこんなふうに言っていますが相当パニクると思います。娘は今16歳、高校一年生ですが、中1のときに彼氏ができたのです。オープンにお互い話せる親子関係だと思っていたのですが娘がそれをひた隠しにしていて、私たちはいまだにふたつ布団をひいて、その上にダブルの羽毛布団をかけてデカい3人で寝ているのです。それなのに、そのときに娘が「ひとりで寝たい」と言い出したのです。「そうなん。大人になるステップかしら」と思ってひとりで寝かせて、夜中にパッと見に行ったらずっとメールをしていたのです。「何してんの」と言ったら、娘が急に布団の上に正座して「お母さん、私、彼氏ができました」と言いました。カッチーンときて、私、そこにあったみかんをブワーっと投げたのです。ハハハ。娘、ごめんなさい、あのときは。でも、本当にそれくらいちょっとわからないです。次に娘に言ったのは、性教育はしていて、「あんたな、セックスは子どもを作るためのものと思っときや」と。だから自衛をするか、私は思っているのです、「自分がもし(妊娠したら)、男ってもしかしたら逃げるかもしらん」と。「ひとりで子どもを育てる羽目になるかもしれない。だからその経済力は絶対つけといてや。」「ひとりでもええし、夫婦でもええし、自分がひとりで子育てできるようになったら妊娠してちょうだい。もしそれが破られることがあったら、今度は玉ねぎを投げます」と言っています。ハハハ。痛いでしょう。「痛いの投げるよ」と言っていますけど、そうなったら多分、私が育てるでしょうね。それもまた楽しいと思います。

質疑応答に答える石田さん

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。それでは質問フォームからの質問に戻ってニックネーム、*シロゴマ*さまからのご質問です。「失礼なことをお伺いしますが、うつになってから再びうつになりそうなことはありましたか」とのご質問です。石田さん、いかがでしょうか。

石田さん
文藝賞の次点になって出版が決まった途端に師匠の森田雄三が小脳梗塞で倒れました。それから2年、居宅介護して亡くなりましたが、倒れたときにもう言葉がしゃべれなくなってしまったのです。師匠と意思の疎通が取れないとなったとき、本当に今まで私は助けられてきて、自分が書いたものを師匠に逐一送って怒られたり励まされたりしながらしていたので、師匠がいなくなったということ(は大きなことでした)。先ほど生い立ちのことを言ったときに母親がいたのであまり突っ込まなかったのですが、帰ったから言いますけど父親が統合失調症でした。当時は統合失調症はポピュラーではなくて、うつ病と誤診断されていました。統合失調症であるのにうつの薬を投薬されたことで余計に暴力がひどくなり、妄想もひどくて、本当に暴力と貧困の中にいたのです。だから余計に自分という存在を抹消したかったし、直面したくなかったし、父親のことを忘れたかった。母親も苦しくて、私たち家族から母親が目をそらして逃げることもありました。「逃げるやろ」と今は理解しています。当然、逃げると思います。学校でも(私は)先生に嫌われていました。かわいくないから。ひねくれているし汚いし。だから世の中に対して全然、信用していなかったのです。

でも森田は、私が稽古に行って、森田の言っているだめ出しがわからなくて「もうわからへん」と怒ってプイっと帰ったりして次の日に行くと、「石田、稽古場から帰って放棄したんだからもう来んな! 」とか言います。でも、「俺だけが決めるんじゃねえ。稽古場だから。みんな、どうする? 」と聞きます。そうしたらみんなが「おってもええと思う。」「じゃあ仕方ねえ。いろよ」みたいな感じで、雄三さんはもしかしたら見捨てていたかもしれないけれど、私が行くと必ず受け入れてくれたのです。そういう存在の絶対的な人でした。私を排除しない、私を無価値と言わない初めての大人でした。だから森田雄三がいなくなったのは私にとってすごく大きかったです。

子育ての面でも、そこそこ勉強させていたつもりだったのに、娘が中学一年のときにテストで8点を取ったのです。すごく怒って娘に「ちゃんと勉強しなさい」みたいなことを言って、ショックで師匠にそれを愚痴ると「石田、だめだよ。毎日学校に行って、座って授業聞いて8点、天才だよ。聞き流しの天才だよ」と師匠が言ったのです。「石田、そんなふうに子どもを追い詰めるな。君がそうやって言ってもまだできないっていうことは何かできないんだよ。でもいいとこあるじゃん。追い詰めたら劣等感を植えるだけじゃん。だからやめときなさい」とか、そういうふうに私が暴走しないようにいつも言ってくれるのです。だから、森田雄三がいなくなったというのは、「たぶん親を失うってこういうことなんやろな」と思います。親とのコネクションがあまり気持ちの中でないので、普通の家庭でお母さんやお父さんが死んだというのはこういうことですよね。すごくぽっかりしました。そして「作家になったのだから作家として生きなければならない」と思ってしまって、あとは子どもがふたり、グングン大きくなるのに収入がないのは本当に辛いことです。お金がない、仕事がない、師匠がいないといういろいろなことで、そのとき、もう一度うつ病になりました。誰とも会わなくなって、友だちが「落ち込んでるからお菓子送るわ」と言ってくれても「ほっといて」と、誰の手も取れなくなってしまった時期がありました。

そのときにどうやって打開したかというと、森田雄三は普通の生活の中に喜びがあり、創作があることを教えてくれた人なのです。石田があかんたれで、そうやってあかんたれとして生きているからこそできることがあると教えてくれた人だということにあるとき気づいたのです。「私はこのままあかんたれで、特別にキラキラしたおもしろいことが言えるわけでもない。でも、そのままで作家として、ありのままで書けばいいんだと雄三は言っていたな」と、「だからこそ素人と3日で芝居を作るということもしてたんだな」ということに気づいたのです。『哲司』を書いているとき、特にひとりぼっちやと思っているときも周りの人はずっと私を励まし続けてくれていましたが、私はそれを拒絶していました。でもそれに気づいて、障害者施設で働き始めて、施設の子たちを助けるようでいて私は助けられている毎日で、元気になってきても変わらずまたみんな、私に手を差し伸べ続けてくれています。今、こうやってフェリシモの神戸学校に私のような、「誰やねん、石田香織」という作家だと思います。全然、本も売れていないし。でもこうやってみなさんが話を聞いてくれるのは森田雄三が作ってくれた筋道なのです。私に作品を書かせたのは森田雄三なので。森田雄三がいなくなっても私は師匠の七光りをずっと浴びていることに気がついて、それで元気になりました。

今も心療内科に通って漢方は飲み続けています。心療内科の先生ともいいコネクションができて、「あかんと思ったら先生とこ行けばええんや」というお守りにしています。行ったら先生に「でもね石田さん、いちばんええのは無理せんことなんやで。無理せんと今、立ち止まって休むのがいちばんええんやで」と言われますが、やっぱり子どもがふたりいるのでそれはなるべくしたくない。「じゃあ君へのエールで、いつでもここに来て僕に話して元気になる道筋があるというコネクションを持つ。僕がエールを送っていることを石田さんが忘れないために整えるような漢方だけ出しとくから」と言って私の手を先生も離さないのです。だからそういう意味ではうつは寛解したとは言わないかもしれません。自分がうつの状態になりやすいとか、引きこもりが長かったので「世の中の人みたいにちゃんとしたい」という願望がすごくあります。「ちゃんと書きたい」とかね、その願望にはまってしまうことがあるので、「その傾向にある」と自分の弱い傾向をつかまえて、あとは早めに「助けて」と言える人を作っておきます。病院にもすぐ行ったらいいと思うし、とにかく抱え込まない、「うつでもええやん」ということです。「いいのよ。一緒にがんばりましょうね」みたいな感じです。付き合いながらがんばりすぎない、そんな感じです。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。やはりしんどくなったときも、今回のテーマである「自分として生きる」、「他者と生きる」に立ち返るということですね。

石田さん
そうです。今、もしかしたらその人がうつで苦しんでいるかもしれないので言いたいのが、俯瞰した自分をもうひとり作るということです。もう出られない日もそれを見ている自分、「あ、またうつになってる」、「落ち込んで泣いてる。めそめそして、ハハ、泣いてる」みたいなどっぷり浸かった状態をおもしろがるもうひとりの自分ができれば、ちょっとらくになるかもしれないです。

フェリシモ
ありがとうございます。先ほどの質問でもやっぱり森田さんの存在は大きかったとのことですが、たくさんあるとは思いますが、森田さんから言われたことの中でいちばん心に残っていることはありますか。

石田さん
とにかく「絶望するな」と言われました。「絶望からは何も生まれないから、とにかく笑って過ごせ。そのために創作があるんだよ」と。「絶望してもいいことはないよ。笑えよ」、それと「石田、助けてもらえや」というのも言われました。あと「助けてやれや」と。私たちの即興芝居はふたりが前に出て、いきなり即興で芝居を始めるというのが割と多いのです。台詞を言うときに、相手が何かイメージして言いやすいセリフを投げるというのが芝居なのです。演劇はまるで自分が輝くためにあるみたいですが、自分と一緒に舞台に立っているもうひとりの人のために演劇があるのです。そして、この人のために必死になるからできるという感じで、誰かを助けるということは自分も助けられるという(ことで)、このふたつが深く繋がっている、それが師匠の教えです。「助けてやれや」と「頼れや」です。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。以上で質問のお時間を終了といたします。たくさんのご質問をいただきありがとうございました。

石田さん
ありがとうございます。

「#拍手」

フェリシモ
それでは最後に石田さんに神戸学校を代表して質問いたします。改めまして、石田さんが一生をかけてやり遂げたい夢について教えていただけますか。

石田さん
先ほど分断という話をしましたが、生きている中でお互いが見えないというのがあると思います。例えば、当事者でないと障害者の人が見えないように世の中は作られています。私が母子家庭をしているので軽く「うちも旦那が遅いから母子家庭みたいな人や」と言う人もいます。でも、それは何かというと、母子家庭という家が見えないのです。社長だったら社長が引っかかるワードもあると思います。「社長っていうことをわかってくれてない」みたいな(ものが)、ね、社長、あると思います。そういうふうに、いろいろな人が、それぞれが見えなく生きているのです。だから、いろいろな人にちゃんと出会っていって、その人の目線で作品を書いていって、世の中は分断されていてお互いにやさしくできなかったり、わからなかったりするのをちょっとでもお互いを想像できるように、そういうことを作品で発信し続けたいと思っています。

フェリシモ
石田さん、ありがとうございます。本日は神戸学校にお越しいただき、本当にありがとうございました。

石田さん
ありがとうございました。

神戸学校集合写真の石田香織さん
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