フェリシモCompany

「鳥の目で見る社会と世界」

鳥瞰図絵師

青山大介さん

開催日
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プロフィール

1976年神戸市長田区生まれ。高校時代に都市鳥瞰図の第一人者、故・石原正氏の鳥瞰図に 出会い、 「愛する神戸を正確に描きたい」と独学で鳥瞰図絵師を志す。日本でも数少ない 鳥瞰図絵師として活躍中。主な作品に『港町神戸鳥瞰図2008』、『港町神戸鳥瞰図 2014』、『大阪梅田鳥瞰図2013』。また、神戸開港150年の20187年には、開港当時の資料 調べ、想像や遊び心を交えて昔を描いた鳥瞰図と、2017年最新の街を描いた『港町神戸 今 昔鳥瞰図2017&1868』を発行。2019年5月、そごう神戸店SOGOPRESS誌上で発表した「或る日の神戸三宮2018」は今後も街が毎年変化する姿を更新す る予定。また、2019年7月には、神戸海洋博物館にて「海へ届ける絵画展」を画家の谷川 夏樹氏と共同で開催。

※プロフィールは、ご講演当時のものです。

講演録 Performance record

第1部

青山大介さん(鳥瞰図絵師)

青山さん:
今日はみなさん暑い中、お越しいただきましてありがとうございます。80分ということでお時間をいただいておりまして、時間が長いのでしっかりとパワーポイントでデータを作ってまいりました。楽しんでいただけたらありがたいと思っています。初めての方もいらっしゃれば、しょっちゅう僕の話を聞いている方もいらっしゃると思います。すごく緊張しいなので、そのうち汗でビシャビシャになってくると思いますが、いつものことなのであまり気にしないでください。

「#スライド」

青山さん:
今回、パワーポイントを作るにあたりまして、初めて取り入れてみたものがあります。この黄色い変なやつですけど、うちで飼っているヤマブキボタンインコのピッチです。実際に飼っているインコはピッチではなくて違うなまえがあるのですが、僕は歴代このインコを飼い、かわってもピッチと呼んでおりまして、もう今は何代目かわかりませんがずっとピッチです。一応、オリジナルのキャラクターということで、その子を呼んできました。僕は船が好きなので船乗りさん的な感じで帽子をかぶらせていますけども、この子は僕の設定の中では一等航海士なのでチョッサー(註 一等航海士の意味。「チーフオフィサー」が訛った言葉)のピッチということで見てもらえたらありがたいです。船長ではなく、一個下の航海士さんです。今日はピッチがずっと案内しますのでよろしくお願いいたします。

■歴史の中の鳥瞰図

「#スライド」

青山さん:
まず、歴史の中でどんな鳥瞰図があるのかいくつか順を追って取り上げていきたいと思います。スライドの右の絵は洛中洛外図屏風です。狩野永徳さんが描かれた屏風絵で、室町時代のころの鳥瞰図です。日本ではおそらく鳥瞰図はもっと古い時代からあると思いますが、洛中洛外図は代表的な作品のひとつに数えられると思います。

庶民の家は板葺きで重しに石を乗せているのがスタンダードで、当時は当然、瓦屋根なんてなかったことがこの洛中洛外図から見て取ることができます。左下に黒い屋根の家があります。何の家かよくわからなくて、ひょっとしたら大きな豪族の屋敷かもしれませんが、この絵を見る限り檜皮葺(ひわだぶき)といって、ヒノキの皮を削って重ねていった屋根かなと僕は思います。また、右下に青色の屋根の家が3、4と並んでいます。朱塗りの赤い柱があるので何となくお寺か神社かと思いますが、この青い屋根を見ていると瓦かなと思います。そうやって室町時代くらいの京都には板葺きの屋根に重しに石を乗せたり、瓦屋根や檜皮葺の家があったという当時の暮らしぶりが見えるということが非常に貴重だと思います。日本人がうまいなと思うのが雲で隠すところ、ごまかすところがいやらしいですよね。雲をなくして全部描こうと思うとなかなかむずかしいところがあったりすると思いますが、適度に雲でごまかすというのは、僕もちょっとまねしたいとは思いますが、さすがに今までやったことはないです。

「#スライド」

青山さん:
いきなり時代が飛んでしまいますが、大正、昭和初期に一世を風靡した鳥瞰図のスーパースター、吉田初三郎さんの絵になります。この方は作品点数が2000点とも3000点とも言われ、すごくたくさんの作品を残されています。全国、おそらく北は北海道の端から南は沖縄くらいまで、当時はまだ外地がありましたので、満州やソウルの方まで鳥瞰図として残されているのではないでしょうか。全国のいろいろな自治体さん、鉄道会社さん、温泉街などの観光地からの注文があって鳥瞰図を描いておられます。

画面に展示しているのは神戸です。戦前の神戸なので、まだポートアイランドなんてあるわけはなく、一応くし型の突堤、今、みなさんのおられる新港の1突(突堤)から4突までは完成しています。東の方に行って新港5突あたりから8突はまだ「これから作るよ」というラインだけが引かれているような状況なので、何となく昭和初期、一ケタくらいの時代かと思います。

吉田初三郎さんの鳥瞰図は神戸の市街地を端から端まで大胆に描いています。ランドマークとなる名勝や旧跡はそれなりにしっかりと表現されていますが、それ以外の民家とかは適当に描かれていて正確ではないです。

吉田初三郎さんの大胆なところは、神戸から離れていきますと東の端の方に大阪の町が小さく見えています。さらにその先に京都や琵琶湖があって、そして遙か先、右上の方に富士山や東京が描かれています。神戸くらいから上空にあがっても絶対に富士山や東京は見えませんがそういうのが描かれていたり、また、西の方に行きますと四国や九州が描かれています。大胆なデフォルメをされて描かれる吉田初三郎さんの鳥瞰図になります。この人の作品点数は本当に多いので、今でも時々、全国いろいろな所で作品展をされています。機会があったらぜひ吉田初三郎さんワールドをご覧になっていただきたいと思います。

「#スライド」

青山さん:
いきなり飛びますが、歴史の中の鳥瞰図はもう戦後に入ってきました。ドイツのヘルマン ボルマン(Hermann Bollmann)さんです。ヘルマン ボルマンさんの会社は今でもドイツにございまして、ドイツを中心とした各都市、そしてドイツ以外にもヨーロッパの主要都市やニューヨークの鳥瞰図を描かれています。

左側の絵はブラウンシュヴァイクというドイツの都市、右側はミュンヘンです。ブラウンシュヴァイクの鳥瞰図で黒い屋根の所がわかりますか。真っ黒けになっています。これは戦災で焼けて外壁だけが残っている状態の建物です。建物が建っていない更地の部分も多いです。これも基本、戦災で焼けてしまった姿のようです。

ヘルマン ボルマンさんがなぜ鳥瞰図を描こうと思ったのかということをこの会社の方から聞きました。ヘルマンさんは戦後、ソ連の方に連れていかれて、3年ほどたって自分のふるさとのブラウンシュヴァイクに帰ってきた時にあまりに荒廃した姿を見て、これは何とかして描き残さなあかんということで描かれたのがこの左上のブラウンシュヴァイク、昭和23年の作品です。今でもヘルマン ボルマンさんの会社ではこの絵を販売されているようなので、手に入らないことはないという絵です。このヘルマン ボルマンさんの絵を見て多大な影響を受けたのが鳥瞰図絵師の石原正さんです。

「#スライド」

青山さん:
スライドは、「歴史の中の鳥瞰図 石原正」です。石原正さんは昭和12年、函館生まれの方です。僕にとっても、この絵の中のピッチにとってもスーパースターです。何よりも僕はこの人の鳥瞰図が大好きです。この方は関西を中心にした鳥瞰図を30点ほど残されています。

右の作品が昭和56年、1981年の神戸です。1981年と言いますと、神戸ではポートアイランドで博覧会があった年で、その年に描かれた鳥瞰図です。後ほどこの81年の鳥瞰図と僕自身が描いた2017年の神戸の鳥瞰図を見比べて、町がどんなふうに変わったかを見てみたいと思いますのでよろしくお願いいたします。ということで、僕が勝手に選んでいますが、室町時代から昭和初期、平成まで活躍された鳥瞰図絵師さんを4人紹介させていただきました。

■高校で石原正さんの鳥瞰図に出会う

「#スライド」

青山さん:
次になぜ僕自身が鳥瞰図を始めたのかという答えにつながるかどうかちょっと疑問ですが、鳥瞰図を描く前、僕自身がどんなふうだったのかを紹介していきたいと思います。

子ども時代です。スライドは震災後に描いた絵ですが、当時の自宅です。長田区の鷹取商店街のすぐそばにあった五軒長屋の二軒分を使った家でした。隣の家との壁がビタっとひっついているような狭い所だったので、家と家の裏の隙間を走りまわったり、公園に行って遊びました。本当の下町でした。まわり近所、みんななまえも顔も知っていて、おばちゃんでもおばあちゃんでも学校から帰ってきたら「何とかちゃん、おかえりー」「ただいまー」という世界でした。僕は昭和51年に長田区の鷹取地区で生まれ、震災までそちらでずっと暮らしていました。今でもそうですが、基本、スポーツがほとんどすべて苦手で、せいぜい泳ぐくらいしかできないです。ボール関係の遊びが本当に苦手で、動体視力をいっさい養っていないので物を投げられても全然取れません。誰よりも下手です。なので、僕に物を渡す時は絶対に取れないので投げないでください。外で遊ぶよりずっと家で絵を描いているような人間でした。地震で家とともにつぶしてしまったので、当時の絵は今、1点も残っていないのですが、生きている人や動物よりも家やビル、橋といった固いもの、無機質なものを描いていたと思います。

中学2年生の時に神戸市が市政100周年を迎えました。この時に自分が神戸のことを好きになったというのは今でも断言できますが前段階があります。幼稚園のころに見たポートピア博覧会であったり、昭和60年、1985年にユニバーシアード神戸大会がありました。神戸総合運動公園ができて、巨大な陸上競技場やテニス場ができて、そこでコウベグリーンエキスポ’85をして、「すごい、神戸、めっちゃかっこいいな」と思っていました。

市営地下鉄も最初は新長田―名谷間だけでしたが、どんどん郊外に延伸されていきました。新長田から大倉山まで延び、名谷から学園都市まで、大倉山から新神戸まで延び、学園都市から西神中央までまた延びて、自分の町の社会インフラがどんどん整備されていきました。電車が通ればそこにニュータウンができ、削ったもので新しく人工島ができ、「こんな開発ができる神戸ってすごいな」と、かっこいいものとしてずっと見ていましたね。

市政100周年で思い出深いのは、神戸市民に無償で100年史を配布したことです。当時の神戸はぜいたくなお金があったのです。うれしくてずっと持ち歩いていたのでボロボロになっていますが、その本は今でも宝物にしています。そういった感じで、神戸のことがすごく好きになっていました。

そして高校に進学します。平成3年、名谷にあった神戸市立神戸工業高校、市工(いちこう)と呼びますが、インテリア科に進学しました。今は科学技術高校として葺合の方に移転されていますが、名谷の校舎に通いました。この学校ではいろいろなことを専門教科として学びました。基本、僕は頭が悪いので工業高校に行っているので、普通科目の教科は本当にアホですけど、専門教科については楽しかったです。特に、この学校で初めて製図をしてみるのですが、高校でする製図なのでたいした製図ではありませんが、もう水を得た魚のように製図が大好きでした。ロットリングを使ったり、ドラフターという製図台を使って何かを描いたり、これはちょっとした自慢ですが3年間、製図ではクラストップでした。

その学校ではガラスの加工もしました。ガスバーナーでガラス棒をあぶるのですが、ガラス棒をいきなりガスバーナーにビっとつけてしまうと一気に熱で膨張してバンっとはじけてしまうので、ガスバーナーに近づける時には振って徐々に熱を加えていき、溶かしたガラス棒でガラス玉を作りました。あとサンドブラスト、砂を高圧でピシャーっとぶつけて表面を加工することを習ったり、白黒でしたが暗室で写真を現像したり、この画像の右下に家具の木工事の機械がたくさん並んでいますが、家具木工のことも習って家具を作りました。この学校のインテリア科では大半、木工の機械をさわって何か作っていました。どちらかというと僕は家具を作るのがあまり好きではなかったので、その授業に関してはあまり楽しかった思い出はないのですが、おおむね専門教科は楽しく過ごした3年間だったと思います。自分自身でもクリエイティブな時間を過ごせたと思っていて、今でも自慢の時間です。

「#スライド」

青山さん:
高校3年生だったと思いますが、石原正さんの作品と出会いました。今、スライドの右側に載せているのはポートピア博覧会の公式マップの鳥瞰図です。僕が直接出会った石原さんの作品ではありませんが、先ほど石原正さんの神戸の鳥瞰図を掲示しましたので、やっぱりこれも出しておきたいと思い、ポートピア博覧会の鳥瞰図を出しました。この絵は真ん中にポートピアホテルがドカーンと建っていまして、まだ南館はないです。ポートアイランドスポーツセンターがあり、ワールド記念ホールはまだなくて、サーカスのテントがあります。青少年科学館のプラネタリウムや本館は、もちろん博覧会の当時から建っていますのであります。印象深いのがUCCコーヒー博物館、あのコーヒーカップの形をしたパビリオンもこの絵から見てとることができます。よく見るとダイエーのオムニマックスシアターやテーマ館、サントリーのパビリオンとか、当時、いろいろな形のパビリオンがあったので、鳥瞰図を見ると博覧会がよみがえってきます。忘れられないのがパンダです。僕の中ではポートピア博覧会はパンダで、「並んでパンダを見たな」というふうに覚えています。

話がそれましたが、高校の時に出会った鳥瞰図は石原さんの神戸絵図でした。直接、神戸絵図を見たと言うよりも、僕の3つか4つ上の先輩方が石原正さんの神戸絵図を40人学級で40分割して1つ1つの絵図を拡大模写して組み合わせた巨大な神戸絵図を作り、その作品が実習棟の4階の倉庫の壁のすみに立てかけられていました。めったに入らない倉庫だったのですが、その中に入った時に「なんじゃこりゃ。神戸の町がめっちゃ細かく描かれてるやないか」とびっくりしまして、先生に「倉庫にあるあれは何ですか」と聞いてみると「あれは石原正さんの神戸絵図だ」と。石原正さんが新しい著書を書かれたころで、先生から「こんな本があるよ」と出版したばかりの本を見せてもらって、むさぼるように読んだ覚えがあります。それが僕にとって石原正さんの作品との初めての出会いでした。

平成6年の3月に卒業して就職することになりました。会社は大阪の豊中にありました。庄内という所で豊南市場がある、結構、下町の会社に就職しました。阪急百貨店さんの子会社だったので梅田にはしょっちゅう行っていました。会社の帰りに梅田の紀伊国屋書店さんに寄り、地図コーナーで石原正さんの鳥瞰図が販売されているのを見て、「うぉー、石原さんの作品が売ってるやないか」ということで、欲しいものから買い集めていきました。今だったらおそらく全部大人買いすると思いますが、当時はそれがなくなるなんて思っていませんでしたから、欲しいものから順番に「今日は神戸を買おう」、次に見たら「うーん、大阪はあまりほしくないけど、このラインナップだったら大阪がいいかな」という感じで順番にボチボチ買っていました。

高校で石原正さんの鳥瞰図に出会う話をする青山さん

■兵庫県南部地震で被災

「#スライド」

青山さん:
就職1年目の1月17日に兵庫県南部地震が起きました。上の画像は当時の僕の家です。壁のモルタルがバサっとはがれて柱や板張りが丸見えになって、一階がえらく傾いてしまっています。先ほど絵で描いていた自宅がこれです。当時はこの家に家族6人で暮らしていました。鷹取地区は非常に火災がひどかった所で、地震発生後、本当にすぐ後、もう1分後くらいの感じで火災が発生しました。一気に燃え広がって、お昼の12時か13時くらいには7町がほとんど全焼しているような感じでした。家のワゴン車がありましたが、さすがに家族全員は寝られないので祖母とケガをした兄弟は親戚の方に移動してもらって、僕と両親の3人は車の中で寝泊まりしていました。3日間か4日間だったと思います。その後、市立長楽小学校の体育館に入りまして、今でもはっきり覚えていますが、そこから64日間、体育館で避難所生活をしました。そこから会社に通っていくことになるのですが、当時、長田の町並みの焼け跡や全半壊した惨状を身にしみて見続けました。

豊中の会社に通勤しないといけないのですが、これも当時の記憶は忘れないといいますか、1月30日にJRが須磨から神戸駅まで復旧して、その日に初めて豊中に通勤しました。それまではずっと体育館にいて、早朝に被災した家から西区、玉津の母親の実家に夜逃げみたいな感じで荷物を運び出していたのですが、1月30日に初めて三宮の姿を見るわけです。避難所のテレビで三宮の様子を見ていましたので、何となくどうなっているか想像はついていたのですが、実際、自分の目で見るとやっぱりショックでした。

「#スライド」

青山さん:
2点、写真を出していますが、上の方は神戸交通センタービルと左奥にさんプラザが見えています。この写真たちは、初めて三宮を通った1週間後の日曜日か土曜日、出勤する必要がない会社が休みの時にフィルムカメラを持って三宮に撮りにいきました。さすがに1月30日はカメラなんか持ち歩いているわけではないし、また、被災した建物の写真を撮るのはなかなか勇気がいるといいますか、罪悪感があるといいますか、いろいろな思いがあったのでカメラを向けるのはきついものがありました。でも、「これは何とかして撮っとかなあかん」ということで1週間後、小さい全自動カメラを持って撮りに行った写真がこれです。今みたいにデジカメがあったら何百枚でも写真を撮って残すのですが、当時はフィルムカメラなのでそんなにたくさん写真を撮ったわけではなくて、この日はせいぜいフィルム2本分くらいだと思います。交通センタービルやそごう、市役所、阪急会館を撮っています。その後もたびたび写真は撮っていますので、被災した姿がどんなものなのか、それがどんなふうに解体されていくのか、更地になった後どうなっていくのかということをずっと見てきたという自負心はございます。

下の画像は阪急会館です。くずされていくと阪急会館の中が見えて、劇場連結いすが見えているというなかなかショッキングな景色が当時、ありました。ちなみにこの連結いすは、僕が勤めていた会社が作って納めたものでした。阪急製作所という会社で、劇場連結いすも手がけていました。

「#スライド」

青山さん:
スライドのタイトルは「復旧、復興の神戸をともに歩く」ということで、僕自身、復旧、復興をずっと見てきたという思いが強いです。変わりものですが、なぜそんなふうに思うのかといいますと、上の画像は僕が住んでいた鷹取東地区の写真です。1年後なので、当然、焼け跡はすべて更地化されて復興仮設とかが建っていっている状況です。なぜこの写真を今回選んできたのかといいますと、真ん中のちょっと左側に、白いハの字型にコンクリートの側溝が見えるのがわかりますか。ここに道路ができるので両サイドに側溝を埋めていっているのです。ここに道路ができるということは、全焼したところの区画整理で土地の所有者が自分の土地を減歩で出していかなければいけないわけです。道路が広がるのでもともとの土地は確保できないから、土地の所有者は土地を泣く泣く削っていかないといけません。そういう交渉が済んでやっと土地が決まってはじめてこうやって道路の側溝を埋めようとしています。焼け跡だったところに道路ができるわけです。側溝を埋めていくところをたびたび見ていくわけですが、これが徐々に道路になっていくのです。道路ができたあとに各住宅地の区割りができて一軒、一軒、家が建っていき、また掘り起こして下水道や上水道を埋めていく様を見ていて、焼けてしまった町がどんなふうになおっていくのかをずっと見てきたという思いがあって、今日、こういった写真を出してみました。

下の写真は僕が大好きな、大好きと言っていいのかな、神戸交通センタービルの3階建て時代です。こちらからなかなかわからないのですが、今日、このビルに勤めておられた方も来られていると思いますが、この3階建て時代の交通センタービルが好きなのです。もともと9階建てで、右上の画像では5階あたりがくしゃっとつぶれていますが、上層階を取っ払ったあとにわずかな時間でしたがこの3階建て時代があったのです。このあと3階部分と2階部分もある程度解体したあとに、本復旧ということで今、10階建てのビルになっています。なので交通センタービルは地下や1階部分のビルの躯体そのものは昔からの古いものが生かされています。

当時の神戸はすべてつぶして新しく作ることがなかなかできないケースがあったので、古いものを生かして上に建てなおすというのがいろいろなところでありました。そごうさんもそうです。本館中央部分は地下と1階は昔からの古いもので、ガラス張りの上層階、2階より上が後からつけたした部分になります。神戸市役所さんの2号館もそうです。8階建てだったところを上層階を取っ払って新たに5階をつけたしました。さんプラザさんも、もともと10階建てだったのを上を取っ払って今は6階建てになっています。「単純につぶして建て替えるのではなくこんなやり方があるのか。すごいな。人間って知恵をしぼるんやな」と見続けてきました。なので、僕が三宮を歩く時は「そういうところが何かないかな」「このビルには地震のクラックの跡がないかな」とつい目で追いながら、ちょっと変わり者なので、24年前からずっと変わらずに町を眺めて今まできております。

神戸交通センタービルの3階建て時代の画像

■石原さんの死で鳥瞰図への覚悟が固まる

「#スライド」

青山さん:
1つ目の会社時代ですが、協力業者さんと現場で待ち合わせをする時に、今はメールで住所さえ送れば相手さんもすぐに検索して場所がわかりますが、当時はそういう時代ではなかったので、スーパーマップルなど地図を焼いて「待ち合わせ場所はここ」と書いてFAXで送りました。当時の僕は変に自信があったといいますか、イラストで待ち合わせ場所の地図を描いてFAXで流したらそれが好評で、業者さんから喜んでもらいました。それで調子をよくしまして、石原正さんの鳥瞰図の影響もあり、1999年ころにまね事で三宮をがんばって描いてみました。当時としては真剣に描いたのですが、今見たら恥ずかしくて人には見せたくないのであまり拡大はしたくないです。屋上部分をちゃんと描いていないとか、描きたいビルは描いているけど描きたくないビルは描いていないとか、今から見たらふざけるなというところですが、当時としてはがんばって描いた絵でした。

せいぜいこんな絵を描くのが精一杯だったのですが、当時、景気が悪かったのでリストラがあり、2001年に会社を辞めることになりました。失業時代に友人から僕が描いた三宮の絵を「そんなに石原さんの絵が好きやったら見せに行ったらええやん」と言われました。「いやいやいや、そんな恐れ多い」という感じでしたが「俺やったら持って行くで」と言われて「そうなんかな」と思いながら石原さんのところに持って行って見てもらうことができました。

「#スライド」

青山さん:
2001年の8月のことでしたが、2時間くらい三宮の絵を前にして「何でこれはこう描いたんや」「何でこれをしようと思ってん」とかなりきつく聞かれました。言えることは言いましたがすべて答えることができず、ムニャムニャとごまかしたこともありました。いまだに石原さんに言われたことで気持ちの中にビシっと残っているのは「何でビルの屋上をちゃんと描けへんねん」ということです。僕の当時の絵は屋上が全部、真っ白けなのです。その時は「上から見た写真がそんなにないのでわからないので」とか適当な言い訳をしたのだろうと思います。ですけど、石原さんから「ビルは屋上で息してるんや。機械を描けへんかったら死んでるんと一緒やないか。おまえの絵やったらこれ死んでるんやぞ」と言われました。

何でビルの機械を描かなかったら死んでいるのかといいますと、この会場も今、冷房をきかせていますけれども、夏場は館内を冷房で冷やして、冬場は暖房してというふうに、部屋の中を冷やしたりぬくめたりします。ビルを冷やすとかあたためるのは屋上にある機械で大気と熱交換をしているのですが、石原さんに「それってビルがそこで息してるんと一緒やないか。その機械を描けへんかったら呼吸して息ができひんねんから死んでるのと一緒やないか」と言われたことは今でも心に残っています。なので、その後、僕が「よし、鳥瞰図をやるぞ」となるのですが、それ以来「屋上の機械類は絶対、省くまいぞ」と取り組んでいるのは、2001年に石原さんから長々と言われたことが今でも記憶に残り続けているからです。

石原さんと会って自分の作品を見てもらう時に、「弟子入りか」という瞬間がありました。その時、四天王寺夕陽丘地区の課題をいただきました。四天王寺夕陽丘地区は大阪で、谷町筋と松屋町筋に挟まれています。南北に細長い上町台地の斜面にある地区で、お寺がたくさんあります。

四天王寺夕陽丘地区の真俯瞰空撮画像、測量会社が撮った真上から見下ろした写真が1枚と、石原さん自身が撮られた、セスナ機かなにかで撮られたのだと思いますが、斜め空撮写真帳が2冊、そしてポリエステルペーパーという半透明の紙を資料として預かりまして、「2週間ほどあげるからこの真俯瞰空撮画像をトレースしてこい」と言われました。ものすごく乱暴な課題で、2週間ほどかけてやるのですがわからないのです。今でもはっきり覚えていますが、真俯瞰空撮画像があまり鮮明ではなかったのです。陰もあったのでわかりにくいというのがありましたが、細部がちょっとわかりにくい。あと、石原さんご自身が撮られた斜め空撮画像と見比べて、補足していけという意味だろうと思ったのですが、真俯瞰空撮画像と斜め空撮画像の撮影時期が違っていたので、真俯瞰の画像に載っている建物が斜め空撮の画像の写真には載っていない、また逆の場合もあったりして、当時、すごく混乱しました。正直、よくわからなかったので本当に何もできませんでした。2週間ほど時間をもらって答案用紙を持っていったのですが落胆されました。「何でこんなんやねん。こんなんじゃ君がどこまでできるかわからんやないか」と、またずっと問答する中で「もう君、向いてないな」とも言われました。答案用紙を持って行った時、僕は次の会社の内定が決まっていたので、石原さんには「すみません。実は次の会社に行こうと思っています」と話をして別れてきました。当時の自分はまだ石原さんの所に飛び込む勇気と覚悟がありませんでした。アルバイトで行くのに抵抗があって、2001年だから僕は25歳でしたが、やっぱり「正社員になりたい」「ちゃんとした会社に勤めたい」という気持ちがあったので、石原さんの世界に飛び込む覚悟がなかった、今はそう思うのです。当時の自分として、もうそれしか選びようがなかったと思っています。そしてその日以来、石原さんとは別れることになります。たまにホームページで見たり、本屋さんで新作が出ているのを見たら買い集めるくらいで、いっさい何のやりとりもしていない時間が過ぎていきます。

「#スライド」

青山さん:
2005年当時、僕はモータースポーツにはまっていました。2000年から2005年ころ、今はたったの5年間だったんだなと思うのですが、車で遊ぶのが好きでした。よくサーキットに行って走っていたのですが、ちょうどインターネットが広がって関西一円で友だちができました。あの時できた友だちは今でもFacebookでしっかりとつながっていますが、世界観が広がって、仲間ができて楽しかったのです。2001年に石原さんの期待にこたえられなかったのは、正社員になって仕事をして、お金をもらって車遊びもしたい、今、目の前にある楽しいことがやっぱり捨てられなかったからと思っています。このころはそういう選択はできませんでした。今なら「おまえな、もうちょっと考えろよ。あの時からやっていたらもっと違うことになっているかもしれない」と思いますが、それは当時の自分の選択ですから仕方ないと思っています。

では、何で鳥瞰図を始めたのかというところですが、見てのとおり2005年までは鳥瞰図をやる気なんてなかなかなかったのですが、大きなできごとが突然降ってやってまいりました。

「#スライド」

青山さん:
2005年の10月25日です。ブログの記事で今でも残っていて、スライドには部分抜粋して転載しています。これは石原正さんの顔写真です。この写真も、やっと自由に使っていい顔写真が今年(2019年)の5月に手に入りました。これまで14年間、この人の顔写真を使いたかったのですが1枚たりとも僕は自由に使うことができなかったのです。やっと僕が使っていいと借りた石原正さんの写真です。写真は函館在住の桑森好造さんからいただきました。

2005年の10月25日にいったい何があったかといいますと、石原正さんが亡くなったとインターネットで知ったその日です。インターネットで石原正さんのホームページを検索していたのですがホームページがなくなっているのです。「前はすぐ見つかったのにな。何でないんやろう」と思って石原正で検索していくと函館市役所のページにたどりつきました。当時、函館市役所のホームページに榎本武揚さんや北島三郎さんなど函館出身の有名な方を取り上げているページがありました。その中に石原正さんも紹介されていたので「行政のホームページに紹介されるんだな。すごいな、石原さん」と思っていたのですが、文章を読んでいくとこの年の3月8日に亡くなっているとありまして、血の気が一瞬で引きました。びっくりして呆然としてしまいました。2001年に別れて以来、この4年間、僕は連絡も取っていなかったし、もちろんそんな状況でもなかったのですが、「今まで何してたんだろう」とかなりショックでした。しばらくはひとりになると泣いていました。「これはもうやばい。日本では鳥瞰図の文化がこれで終わってしまった。これはほんまに絶対まずい。誰かが何とかして残さなあかん。なんとかしてせなあかん」と亡くなったことを知った時に思いました。今でもきっちりと言えるのは10月25日のホームページで見た時の衝撃です。石原さんが亡くなったことを知った日が、「俺が鳥瞰図をやるんだ」と思ったその日でもあります。

鳥瞰図をやるきっかけを話されてる青山さん

■鳥瞰図の制作方法

「#スライド」

青山さん:
ここからいくつか鳥瞰図の制作方法を紹介して参ります。石原さんが亡くなったあと、初めて真剣に鳥瞰図に取り組んだのがこの『旧居留地鳥瞰図2006』です。2006年の12月に初めて空撮しました。ヘリコプターに乗って旧居留地上空を飛んで、12~3周旋回してデジカメで写真を撮りました。デジカメはフィルムカメラみたいに現像する手間がないので、何百枚でも心おきなくバシバシ写真を撮ってきました。

その後、地上も歩きまわって写真を撮っていって、約500メーター四方の旧居留地をちまちまと描いていきます。僕のブログの最初の方には昔の描き方をしていますが当時の作業っぷりが残っています。この時に石原さん流の鳥瞰図のやり方を踏襲して、初めてしっかりと描いてみて、「これ、俺にもやれるかも」と変な自信を持ってしまいました。2、3カ月かかりましたが、案外いけたのです。わからないなりにもなんとかかんとかごまかさずにやれたというところで「よし、やっぱり次はこんな500メートル四方じゃなくて広げた範囲を描こう」となっていきます。

「#スライド」

青山さん:
鳥瞰図をどうやって描いているのかを、ものすごく乱暴になりますけど、紹介して参ります。まず自分が描きたい範囲の地形図をすべて買い集めます。地形図は基本、全国それぞれの自治体すべてで発行されているはずです。神戸市さんでは三宮駅前のジュンク堂書店さんで委託販売されています。たぶんどこの自治体でも、大阪、明石市でも市役所の中にあるコンビニで買えたかな、普通に売っています。店頭販売していないところは建設課さんや都市計画課さんに問い合わせたら必ずあります。どこの自治体さんでも地形図は1枚、だいたい350円とか400円なのでそんなに高いものではありません。

地形図は1/2500の大きさで、道路や歩道、等高線、樹種、あと大きな建物だったら10階建てや15階建と何回建てか書いてありまして建物の高さがわかります。ピッチも言っていますが、ビルの階数が「あれ? 7階やのに何で8って書いてんねん」とか建物の輪郭がそもそも違うとか時々、間違っています。地形図をまるまる信じるとたまにだまされますので鵜呑みにしたらだめですが、「やっぱり人間が作っているんだな」というのがよくわかって、半歩引いてみるといろいろ見えてくるところもあるかと思います。

「#スライド」

青山さん:
次は地形図の拡大コピーおよび裁断です。地図ですから基本的に北が上になっていますが、鳥瞰図を描く時は北を上にして描くとは限りません。南や東を上にして描くかもしれないので、北向きのままに裁断していくとめんどくさいところがあります。自分が描きたい方向に地図を傾けて、その方向にきっちりとマトリックス状にカットしていきます。カットする時は拡大コピーした時にちょうどA3サイズに収まるように逆算します。スライドはカッターで切り取った地形図です。地形図をカッターで一発目に切る瞬間は、角度を間違ってしまったらあとすべて狂ってしまうのでちょっと緊張しますが、こんなふうにもともとの大きい地形図を裁断していきます。そして、それを拡大コピーして、1/1000であったり、1/1600であったり、自分がこの大きさで描くと決めたサイズにカットしていきます。後ろのテーブルには1/1000で描いた鳥瞰図と1/1600で描いた鳥瞰図がありますので、尺度の違いからくる絵の違いを見て取れると思います。後ほどよかったらご覧ください。

「#スライド」

青山さん:
そして、いちばん楽しい作業、空撮です。一連の鳥瞰図の作業の中で空撮がいちばん楽しい作業で、それ以外の作業はすべてしんどいだけです。ここでも(スライドの画面上で)ピッチが「空撮以外のすべての作業は『じ・ご・く』ッピ(^^;;」と言っていますが、これは滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」のイメージで書いています。空撮以外の作業は地獄です。やることなすことしんどいばかりで、いつまでたってもゴールにたどり着きませんが、空撮だけはめっちゃ楽しいです。上から見下ろすこの一瞬がどれだけ楽しいか、それ以外がどれだけ楽しくないかが如実に差となって出ますが、空撮はめっちゃ楽しいです。でも、飛んでいる時間なんてものの数十分なので一瞬で終わってしまって、その次からのプロセスはめんどくさい作業ばかりになっていきます。

「#スライド」

青山さん:
鳥瞰図制作、地上撮影です。今回、選んできたのは三宮のターミナルホテルの写真です。自分でいざ描こうと決めた範囲を歩いて、デジカメで撮影していきます。1枚で済むこともありますが、これはビルを見上げているので上の方の階しか写っていませんけど、特に1階周りがどんなふうになっているのか、上だけでなく下の方も撮らないと、大きなビルになると全体がおさまらないこともあるので、1つのビルで何枚か撮らないといけないこともあります。

地上撮影はなかなか骨の折れる作業でして、路地という路地を全部、歩いて撮影していかないといけません。「さっきここ通ったのに、もう1回通らなあかんのか」ということもあったり、夏の暑い時は汗でびしゃびしゃになりながら撮っていって、ボーッとしながら「どこまで撮ったっけ。また2丁先まで戻らなあかんわ」とか結構しんどくて、写真を撮るだけですがハードな作業でもあります。

「#スライド」

青山さん:
空から撮った写真と地上から撮った写真が集まりますと、いよいよ地形図のトレース作業になります。等高線ずらしですが、鳥瞰図を始めた時は等高線ずらしができませんでした、というよりやろうとしていなくて、自分にはこれは無理だろうと敬遠していたのですが、最近は余裕のようこちゃんになったのでそんなに苦にならなくなり、等高線ずらしをササっとするようになっています。

坂のある町ですと、坂のふもとの方と上の方とでは明らかに高さが違ってきます。それを同一平面上に建物を描いていくと必ずどこかにしわよせがきますので、やはり絵の中でも高さを変えていかないといけないので、トレースする中で地形の段差をしっかりと描きわけていく作業が必要になってきます。左の画像は舞子ビラの部分の地形図です。右側はその舞子ビラ辺りの地形図を等高線ずらしをして高さをずらした絵です。舞子ビラはふもとから見ると結構な斜面の上に建っていますので、しっかりとその辺の高さをずらして、斜行エレベーターも高さをずらして表現しています。そうやってずらした所から建物を立ち上げて描いていくという作業になっていきます。等高線ずらしの手間がすべて省けるわけですから、高低差のない町の方が作業的にはよっぽどらくです。三宮でもセンター街辺りから三宮駅まで2~3メートルの等高差がありますので、神戸はめんどくさい町の方かもしれません。

「#スライド」

青山さん:
そして立ち上げ作業に参ります。ここからがもうひたすら写経のように建物を描いていく作業です。建物の階数、窓の数、屋上の空調機、わかる限りそのとおりに1棟1棟立ち上げていきます。

墨入れする際にはロットリングペンといって今、この3本を持ってきています。今回、実演する鳥瞰図には3本目のペンは使わないので1本はインクが入っていません。残りの2本にはインクを入れています。0.1、0.13、0.2の3種類のペンを持ってきていて、0.1と0.13だけインクを入れています。ロットリングの不思議なところは、0.1と0.13だったら普通に考えて0.13のペン先の方が太いはずですが、なぜか逆転現象が起きていまして、0.13のペン先の方がめっちゃ細くて0.1の方が太いです。これは僕が高校時代にロットリングを使い始めてから今でも伝統的に0.13の方が太いというのは変わらず、この四半世紀、一緒です。何で0.13の方が細いのか理由は本当にわからないです。

立ち上げ作業は、下書きでは定規を使いますが、墨入れの時には使いません。フリーハンドで描きます。いろいろな理由がありますが、定規を何回も紙の上ですらしていくと紙が汚れてきますし、定規を使うとシャープで細い線が引けますが、ちょっとした失敗、毛細管現象とかでインクがピヤっと広がったりという失敗をするかもしれないので、そういうリスクを減らしたいというのと、僕はそもそも自分で直線を引ける自信があるので、あまり定規に頼りたくないというのがあったりします。

「#スライド」

青山さん:
ひととおり立ち上げ作業が終わった後は原画をデータ化して結合していきます。これがなかなかうまくあわないのです。きっちり合わせようと思ってやったにもかかわらず合いません。どんなにやってもうまく合いません。こればかりは鳥瞰図を始めてからずっとテーマみたいなところで、なかなか合わないのでパソコン上で接合部分はある程度、修正していかざるをえなくて、いまだにそうしています。

「#スライド」

青山さん:
そして着色工程に移ります。空撮写真や地上から撮った写真を見ながら1軒1軒、色を塗っていきます。色はパソコンで塗っていますが、デジタルの作業とはいいながらもアナログに近い作業をしています。窓の中も1階1階、木も1本1本、色を乗せていきますのでめちゃくちゃめんどくさいです。そういいながらもずっと色を塗っていきます。広葉樹と針葉樹は色を塗り分けますし、木に陰をつけたり、建物にも明暗をつけたりします。光がどちら側から当たっているかを意識して色を塗り分けていくことで、より町の中の立体感ができていくと思っています。そして汚いものを汚いままに塗るのではなくて、汚いものといったら言葉があれですが、例えばビルの屋上はそんなにきれいなものではなくて汚れていることが多いので、単純にそのまま汚い色で塗るのではなくて明るめの色で塗ったり、海の色も、かなり濃い色をしているので、淡い色で塗ってみたり、色もさじ加減で変えたりします。

「#スライド」

青山さん:
色塗りがすべて終わって、間違いがないか、塗りもらしがないかチェックすると完成に至ります。描いた瞬間に自分の手を離れていくので、完成すると描き手として「おまえ、ほんましあわせになれよ」といつも思います。

鳥瞰図制作中の画像

■これまでの作品について

「#スライド」

青山さん:
いくつか僕が描いた鳥瞰図を紹介していきたいと思います。ひとつ目は、『みなと神戸バーズアイマップ2008』です。居留地の鳥瞰図を描いたあとに、やっぱり大きいのを描きたいということで初めて取り組んだ大作になります。これを描くのに3年半かかりました。本当に試行錯誤の連続だったので、今見ると苦闘の跡が絵の中に随所残っていますが、この絵を描いたから今、僕はこの場にいることができると思っています。そのくらいこの絵は描いて送り出した後、僕にいろいろな恩恵を与え、今でも与え続けてくれている親孝行な絵です。完成した時に絵を見てウルっときたのはこの絵が最初で最後です。今、どんなにしんどくても自分の絵にホロっと泣くようなことはないですが、こいつを初めてカラー出力した時は走馬燈のようにバーッときつかった3年半がよみがえってきて、キンコーズのカウンターでちょっとやばかったです。

「#スライド」

青山さん:
これは2013年に描いた神戸大学、深江キャンパスの鳥瞰図です。この絵は今、深江キャンパスさんに「好きに使ってください」と渡しているので、学校さんの方が活用してくださっています。今でも僕は船関係の人とおつきあいさせてもらっていますが、こうやってもと神戸商船大学でもある深江の絵を描いたというのは、僕にとっては今でも海の人たちとつながる時には大きなきっかけと言いますか、この絵があるおかげでというふうに使わせてもらっています。

「#スライド」

青山さん:
そして2013年、これは神戸市立科学技術高校、母校の後継の学校です。僕が通ったのは神戸市工でしたが、そこが統廃合で科学技術高校となり、そこから10周年誌の表紙絵を描いてくれないかと話がきました。市工時代の先生方が科学技術高校に移動されていたこともあって、当時の担任の先生とかも推してくださったというのがありますが、学校さんから10周年誌の絵を描いてくれと言われた時は、もうまさにここでピッチが言っているとおり、故郷に錦を飾ることができてめちゃめちゃうれしく、誉れに思いました。随所に隠し絵を描いていますが、市工はあまりガラのいい、頭のいい学校ではなかったので、工業高校の子だったらこういうことをするだろうというイメージで校舎から紙飛行機を飛ばしているとか、部室から壁を乗り越えて脱走しているのを描いているのですが、「紙飛行機はやめてくれ。今の学生、そんなことせえへんから」と消させられました。

「#スライド」

青山さん:
そして2014年、『みなと神戸バーズアイマップ2014』です。今でも三宮、元町、神戸に津波避難情報板が設置されていますが、この時に改訂させていただきました。これは僕にとって初めての鳥瞰図改訂作業にもなりました。2008を描いていましたが、改訂する手法を自分の中で確立することができ、自分の中で大きなきっかけになりました。

東日本で大きな津波災害があったので神戸でも津波避難情報板を鳥瞰図で作っています。今、全国でハザードマップが設置されていますが、だいたい地図に等高線で色づけして「ここまで津波がくるかもしれませんよ」となっています。けど、地図が読めない人も普

にしんどくても自分の絵にホロっと泣くようなことはないですが、こいつを初めてカラー出力した時は走馬燈のようにバーッときつかった3年半がよみがえってきて、キンコーズのカウンターでちょっとやばかったです。

「#スライド」

青山さん:
これは2013年に描いた神戸大学、深江キャンパスの鳥瞰図です。この絵は今、深江キャンパスさんに「好きに使ってください」と渡しているので、学校さんの方が活用してくださっています。今でも僕は船関係の人とおつきあいさせてもらっていますが、こうやってもと神戸商船大学でもある深江の絵を描いたというのは、僕にとっては今でも海の人たちとつながる時には大きなきっかけと言いますか、この絵があるおかげでというふうに使わせてもらっています。

「#スライド」

青山さん:
そして2013年、これは神戸市立科学技術高校、母校の後継の学校です。僕が通ったのは神戸市工でしたが、そこが統廃合で科学技術高校となり、そこから10周年誌の表紙絵を描いてくれないかと話がきました。市工時代の先生方が科学技術高校に移動されていたこともあって、当時の担任の先生とかも推してくださったというのがありますが、学校さんから10周年誌の絵を描いてくれと言われた時は、もうまさにここでピッチが言っているとおり、故郷に錦を飾ることができてめちゃめちゃうれしく、誉れに思いました。随所に隠し絵を描いていますが、市工はあまりガラのいい、頭のいい学校ではなかったので、工業高校の子だったらこういうことをするだろうというイメージで校舎から紙飛行機を飛ばしているとか、部室から壁を乗り越えて脱走しているのを描いているのですが、「紙飛行機はやめてくれ。今の学生、そんなことせえへんから」と消させられました。

「#スライド」

青山さん:
そして2014年、『みなと神戸バーズアイマップ2014』です。今でも三宮、元町、神戸に津波避難情報板が設置されていますが、この時に改訂させていただきました。これは僕にとって初めての鳥瞰図改訂作業にもなりました。2008を描いていましたが、改訂する手法を自分の中で確立することができ、自分の中で大きなきっかけになりました。

東日本で大きな津波災害があったので神戸でも津波避難情報板を鳥瞰図で作っています。今、全国でハザードマップが設置されていますが、だいたい地図に等高線で色づけして「ここまで津波がくるかもしれませんよ」となっています。けど、地図が読めない人も普通にいらっしゃいます。鳥瞰図だと、特に観光客の人たちとか神戸を知らない人でもわかりやすいので重宝すると聞いています。

「#スライド」

青山さん:
そして2013年、完成までこれまた2年半くらいかかりましたが、大阪、梅田です。初めて他都市を描きました。大阪駅を中心とした約1キロ四方で、この梅田の絵も石原正さんが描かれた大阪梅田絵図と同じ角度で描いています。石原さんが描かれたのが1984年くらいだったかと思いますが、80年代に描かれているのと僕自身が描いた2013年の梅田で定点対比ができるようにしています。そして大阪イコールUSJと思っていますので、この絵の中にジョーズやスパイダーマンを描いています。「ピッチもこの中にいるんだッピ♪」とスライドでピッチも言っていますが、ピッチもいます。インコをこの中に描くと人間サイズの巨大なインコになります。めっちゃでかいです。「このインコだったら人間も食うんちゃうかな」くらいの巨大インコでコンドル以上、ダチョウみたいなインコになっています。

「#スライド」

青山さん:
ほかにも2016年に舞子公園を描いています。この絵の中にもピッチがいます。今は見る時間がないですが、何かあったら探してみてください。

「#スライド」

青山さん:
そして、神戸開港150年の時に先ほどの2014年の津波避難情報板の絵をさらに改訂して、2017という絵を描いています。この絵は2016年に改訂していますので、1年先の時代の鳥瞰図を描くということで、建設途中のビルや改修工事中の公園の図面をもらって先の状況を描くということを初めてしました。「案外、図面さえあったらいけるんだな」というのもありましたが、当時、図面に描かれていなかったものが改修工事のあとに設置されるというのもありました。メリケンパークの南側にBE KOBEというインスタ映えするモニュメントがありますが、あれはこの絵の中には描かれていません。当時の資料にはいっさいなかったのです。

■150年前の神戸を描く

「#スライド」

青山さん:
その時に描かせてもらったのが『みなと神戸バーズアイマップ1868』で、150年前の神戸の鳥瞰図を描いています。過去にさかのぼって描いた初めての作品です。この時には神戸大学名誉教授の神木哲男先生に監修していただきました。誰も見たことがない当時のことを描きますので、神木先生に見ていただいて描くというのは僕にとっては大事なことでした。当時の神戸はきっとこうだろうと頭の中でイメージはしていますが、そのイメージがはたして正しいのかどうか、最終、やっぱり自信が持てないのです。そういう時に神木先生に見ていただいて「僕はこれをこういうふうに描こうと思っているんですけど、どないですかね」「そうだね、これはこうでいいんかな。けど、ここはもうちょっとこうかもしれないよ」と言ってもらったことを修正して描きあげていきました。

「#スライド」

青山さん:
どうやって作ったのかをもう少し詳しくいきたいと思います。最初に神戸市総合インフォメーションセンターのセンター長、潮崎孝代さんに相談し、神木先生や神戸市文書館の松本館長にその場でどんどん連絡を取っていただきました。「松本館長に会いに行きなさい」ということで文書館には後日、訪れたのですが、松本館長からは明治時代や江戸時代の絵図などいろいろな資料を提供していただき、写真に撮らせてもらいました。ピッチも言っているとおり、潮崎さん、神木先生、松本館長にはすごく力になってもらいました。

「#スライド」

青山さん:
そういった資料をもとに当時の神戸のベースになる資料を作りました。今、ここにあるのは地形図にあぜ道や川、森をマーカーで描き込んだたたき台になるベースを作っているところです。これを描いて「150年前の神戸をこういうふうにしていきますけど、どう思われますか」と神木先生に見てもらいました。

「#スライド」

青山さん:
そして、「うん、これでいいかな」となったら、「よし、いざ描画作業だ」ということで描画作業がスタートします。右側は生田神社です。左側は三宮神社あたりの町になります。生田神社は空襲で全焼していますので、今とは境内が違います。明治時代の境内絵図の複製品を生田神社さんがお持ちでして、それをお借りして描き込みました。今、ちょっとうろ覚えですみません、明治20何年か30年くらいだったので明治中後期の生田神社です。

「#スライド」

青山さん:
その時に描かせてもらったのが『みなと神戸バーズアイマップ1868』で、150年前の神戸の鳥瞰図を描いています。過去にさかのぼって描いた初めての作品です。この時には神戸大学名誉教授の神木哲男先生に監修していただきました。誰も見たことがない当時のことを描きますので、神木先生に見ていただいて描くというのは僕にとっては大事なことでした。当時の神戸はきっとこうだろうと頭の中でイメージはしていますが、そのイメージがはたして正しいのかどうか、最終、やっぱり自信が持てないのです。そういう時に神木先生に見ていただいて「僕はこれをこういうふうに描こうと思っているんですけど、どないですかね」「そうだね、これはこうでいいんかな。けど、ここはもうちょっとこうかもしれないよ」と言ってもらったことを修正して描きあげていきました。

「#スライド」

青山さん:
どうやって作ったのかをもう少し詳しくいきたいと思います。最初に神戸市総合インフォメーションセンターのセンター長、潮崎孝代さんに相談し、神木先生や神戸市文書館の松本館長にその場でどんどん連絡を取っていただきました。「松本館長に会いに行きなさい」ということで文書館には後日、訪れたのですが、松本館長からは明治時代や江戸時代の絵図などいろいろな資料を提供していただき、写真に撮らせてもらいました。ピッチも言っているとおり、潮崎さん、神木先生、松本館長にはすごく力になってもらいました。

「#スライド」

青山さん:
そういった資料をもとに当時の神戸のベースになる資料を作りました。今、ここにあるのは地形図にあぜ道や川、森をマーカーで描き込んだたたき台になるベースを作っているところです。これを描いて「150年前の神戸をこういうふうにしていきますけど、どう思われますか」と神木先生に見てもらいました。

「#スライド」

青山さん:
そして、「うん、これでいいかな」となったら、「よし、いざ描画作業だ」ということで描画作業がスタートします。右側は生田神社です。左側は三宮神社あたりの町になります。生田神社は空襲で全焼していますので、今とは境内が違います。明治時代の境内絵図の複製品を生田神社さんがお持ちでして、それをお借りして描き込みました。今、ちょっとうろ覚えですみません、明治20何年か30年くらいだったので明治中後期の生田神社です。神社さんですから明治元年(慶応4年)の時代も明治中後期の時代も神社の建物は火災で燃えたこともないだろうから建てかわっていないだろうということで、明治中後期の絵図をもとに生田神社を再現しています。絵図の中では、鳥居をくぐるごとに一礼しながら入っていって、最後、拝殿でしっかりと深く一礼するようにちょっとずつ角度を変えています。なかなかわかりにくいですけど、そういうさじ加減もしています。

「#スライド」

青山さん:
絵の中には少しふざけた遊びも入れています。西国街道の追い剥ぎということで、真ん中に橋がかかっていますが、これは今、ちょうどJR三宮駅のフラワーロードのガードの真下の場所です。川が右上から左下に流れていますけども、これがフラワーロードになります。そして橋のある場所がまさにJRの高架のど真ん中です。この橋を渡りきったところのたもとでひとり、女性がへたりこんでいます。仙台からお伊勢参りに来たジュンコさん、ジュンコさんて誰やねんというところですが、仙台のイラストレーターさんという設定にしています。ちょうどこれを描いた時にジュンコさんがいらっしゃったので、「ジュンコさん、どこか僕の絵の中に描きましょうか」と言った時に「お願いできますか」ということで西国街道に描き込みました。ジュンコさんは天然系なので、「これはもうあれやな。お伊勢参りに行こうとしたのになぜか西国街道を歩いてきてしまって神戸まで来てしまったというちょっとすっとぼけた感じの方がいいな」と思って「何で伊勢からこんなとこまで来てんねん」ということにしています。そしてその横には日本刀を構えた追い剥ぎがいるということで、スライドには「危うしジュンコさん! 負けるなジュンコさん!」と書いています。この後に追い剥ぎにあって金目のものを全部盗られる未来が待ち受けている直前です。

「#スライド」

青山さん:
外国人居留地ができた時に競馬場が開設されます。左側、生田神社からすぐ横にゆるいS字カーブを描いた道がありますが、あれは今の東門街になります。東門街は当時から道としては存在していました。そのS字カーブは明治元年には外国人居留地競馬場として競馬場のコースにもされています。7年ほどの競馬場人生だったのでわずかな時間ですが、今の三宮の歓楽街の所には競馬場があったということで、スライドにはそう書いています。

この絵図の中には砂暮井(サボイ)という酒蔵を描いています。真ん中にある家屋がそうで、「砂」に「暮れる」、「井戸の井」と書いて砂暮井酒造というのを勝手に描いています。明治2年の神戸村の現存する写真ではもうこの家がなくなっているので、この酒蔵は競馬場ができる時に立ち退きにあうわけです。なので、これは立ち退きになる直前の姿になります。競馬場ができて、後々ここは都市化していくわけですが、今、その砂暮井酒造のあった場所にはバー SAVOY KITANOZAKA(サヴォイ北野坂)がぴったしあります。僕はよくお世話になっているのでこの絵の中に無理矢理入れています。

「#スライド」

青山さん:
もうひとつ、サイドストーリーのラストになりますが、近代神戸史、最大の悲劇、神戸事件が三宮神社の前で起きていますけども、神戸事件もまじえたサイドストーリーを考えています。サイドストーリーなので実際の歴史ではないですが、当時、三宮神社の境内でおヒロちゃんという薩摩藩からやってきた女性が巫女さんとして働いていました。竹箒を持って落ち葉を集めたりしていたのですが、ちょうどそれを見たフランス人の水兵さんが「かわいい子がいるやないか」ということで西国街道を横断して三宮神社の方に入ろうとします。ちょうどその時に備前藩の隊列が歩いていて神戸事件になったと無理矢理設定を作っているのですが、その時の銃撃戦でおヒロちゃんが流れ弾にあたって亡くなってしまうという設定にしています。実際の事件では誰ひとり亡くなっていないのですが、僕のサイドストーリーの中ではひとり亡くなっておりまして、この絵の左上に木が一本、ポツンと生えていますが、その木の根本に埋葬されることになります。おヒロちゃんが埋葬された塚を地元の人たちは新しい女の塚と書いて新女塚(にんにょづか)と呼んで花を手向けていきます。どんどん都市化をしていく中で誰からも忘れられていくのですが、現在、その新女塚の所にはバー SAVOY NINO(サボイ ニーニョ)がありまして、そちらにおヒロちゃんではなくて*ヒロコ*さんというバーテンダーさんが実際にいらっしゃいます。そういったところで無理矢理、神戸事件と*ヒロコ*さんをひっつけてサイドストーリーを作っています。今のお話は神戸事件があったということ以外、すべて嘘なので、実際の歴史にはございません。

「#スライド」

青山さん:
最後は祝砲を放つロドニー号です。神戸開港の時にはイギリスの船が12隻、アメリカの船

「#スライド」

青山さん:

外国人居留地ができた時に競馬場が開設されます。左側、生田神社からすぐ横にゆるいS字カーブを描いた道がありますが、あれは今の東門街になります。東門街は当時から道としては存在していました。そのS字カーブは明治元年には外国人居留地競馬場として競馬場のコースにもされています。7年ほどの競馬場人生だったのでわずかな時間ですが、今の三宮の歓楽街の所には競馬場があったということで、スライドにはそう書いています。

この絵図の中には砂暮井(サボイ)という酒蔵を描いています。真ん中にある家屋がそうで、「砂」に「暮れる」、「井戸の井」と書いて砂暮井酒造というのを勝手に描いています。明治2年の神戸村の現存する写真ではもうこの家がなくなっているので、この酒蔵は競馬場ができる時に立ち退きにあうわけです。なので、これは立ち退きになる直前の姿になります。競馬場ができて、後々ここは都市化していくわけですが、今、その砂暮井酒造のあった場所にはバー SAVOY KITANOZAKA(サヴォイ北野坂)がぴったしあります。僕はよくお世話になっているのでこの絵の中に無理矢理入れています。

「#スライド」

青山さん:

もうひとつ、サイドストーリーのラストになりますが、近代神戸史、最大の悲劇、神戸事件が三宮神社の前で起きていますけども、神戸事件もまじえたサイドストーリーを考えています。サイドストーリーなので実際の歴史ではないですが、当時、三宮神社の境内でおヒロちゃんという薩摩藩からやってきた女性が巫女さんとして働いていました。竹箒を持って落ち葉を集めたりしていたのですが、ちょうどそれを見たフランス人の水兵さんが「かわいい子がいるやないか」ということで西国街道を横断して三宮神社の方に入ろうとします。ちょうどその時に備前藩の隊列が歩いていて神戸事件になったと無理矢理設定を作っているのですが、その時の銃撃戦でおヒロちゃんが流れ弾にあたって亡くなってしまうという設定にしています。実際の事件では誰ひとり亡くなっていないのですが、僕のサイドストーリーの中ではひとり亡くなっておりまして、この絵の左上に木が一本、ポツンと生えていますが、その木の根本に埋葬されることになります。おヒロちゃんが埋葬された塚を地元の人たちは新しい女の塚と書いて新女塚(にんにょづか)と呼んで花を手向けていきます。どんどん都市化をしていく中で誰からも忘れられていくのですが、現在、その新女塚の所にはバー SAVOY NINO(サボイ ニーニョ)がありまして、そちらにおヒロちゃんではなくて*ヒロコ*さんというバーテンダーさんが実際にいらっしゃいます。そういったところで無理矢理、神戸事件と*ヒロコ*さんをひっつけてサイドストーリーを作っています。今のお話は神戸事件があったということ以外、すべて嘘なので、実際の歴史にはございません。

「#スライド」

青山さん:
最後は祝砲を放つロドニー号です。神戸開港の時にはイギリスの船が12隻、アメリカの船が5隻、フランスの船が1隻ということで18隻の軍艦が浮かんでいました。慶応3年12月7日、これは旧暦ですが、正午に祝砲21発を打ったということです。神戸の開港150年の絵にはロドニー号が祝砲を打った瞬間の絵も描いています。パフっと白い煙が出ているのが祝砲の煙で、祝砲を打った瞬間なので船がビリビリっと震えるだろうと想定して、普通に見ると小さすぎて誰も気づかないのですが、船の水際にちょっと白い波を立てて船がビリビリっと揺れている設定にしています。

■ヘルマン ボルマンさんの会社とドイツ訪問

「#スライド」

青山さん:
鳥瞰図の話をさらに深めていきたいと思います。2年前にドイツにあるヘルマン ボルマンさんの会社を訪れ、どんなふうに鳥瞰図を描いているのかを見せてもらいました。左側の画像は、ヘルマン ボルマンさんはもう亡くなっていますが、お孫さんのスヴェン ボルマンさんと一緒に記念撮影をしたところです。後ろにセスナ機が写っていますが、このセスナ機はすごいです。ヘルマン ボルマンさん時代から使っているセスナ機をそのままスヴェンさんは使われていて、2年前で65歳のセスナ機と言っていましたから、今は67歳、そのまま使っていると思います。

右側にある建物は特に意味はないのですが、建物の上に管制塔があります。ヘルマン ボルマンさんの会社はこの空港の建物のすぐ横手にあり、「これはナチスドイツ時代の建物なんだよ」と教えてもらったので「ドイツにもそんなものが残っているんだ」と思って写真を撮りました。ヘルマン ボルマンさんの工房内も見せてもらって絵の描き方も聞いたのですが、工房内は写真撮影禁止ということで僕の頭の中にしか入っていません。

「#スライド」

青山さん:
左側がボルマンさんが描いたニューヨーク、1962年の鳥瞰図で、右側は石原正さんが描いたニューヨーク2000の鳥瞰図です。石原正さんはヘルマン ボルマンさんの鳥瞰図にあこがれて鳥瞰図絵師を志そうとされました。なので、ボルマンさんのニューヨークの鳥瞰図と同じ場所を石原さんも描かれています。

「#スライド」

青山さん:
ドイツに行った時、最後に南部にあるアウクスブルクの単科大学を訪問しました。数年前からこの大学のミハイル先生とメールのやりとりをしています。その方は鳥瞰図マニアで、僕の商品を送ったり、向こうからも地図をもらったりしていたのですが、この日初めてお会いして大学で講演をさせていただきました。最後に集合写真を撮ったのですが、向こうの子たちはすごくノリがいいです。みんなでワーっと写真を撮った時に僕自身、極東の日本からドイツに行ったものですから、「神戸って知ってますか。何か神戸って聞いたことありますか」と質問したら、ドイツの学生さんから「神戸ビーフ」と即答で返ってきました。「神戸ビーフって市民もほとんど食べたことがないのに、この子ら知ってるんや」と思ってびっくりして誇らしく思いました。

■新旧神戸の鳥瞰図対比

「#スライド」

青山さん:
新旧神戸の鳥瞰図を対比してみようと思います。みなさん、これは絶対、後悔させません。左側は1981年、石原正さんが描かれた神戸の絵です。中突堤があって、メリケン波止場があって艀(はしけ)だまりになっていますが、今、そこはメリケンパークになっています。神戸海洋博物館があったり、ホテルオークラ神戸があったり、1981年にはこういう姿だったのが、今、2017年の神戸ではこうなっています。

「#スライド」

青山さん:
新港突堤に行ってみましょう。当時は貨物船が泊まっていたり岩屋があったところがどんどん再開発されて今はこんな感じになっています。フェリシモさんももう少しでこちらに本社が移ってくると先ほど社長さまからお話を聞かせてもらいました。次に改訂する時はそこができた時だと思っているのですが、ぜひよろしくお願いいたします。

「#スライド」

青山さん:
今度は旧居留地辺りに行ってみます。震災前の神戸の旧居留地と現在の旧居留地の違いは、こんなふうに見てとることができます。関西電力さんのビルやタワーマンションが建ったりということで激しく変化しています。

震災前の神戸の旧居留地と現在の旧居留地

「#スライド」

青山さん:
三宮駅の方に行ってみましょう。ちょっとサボってJR線より上の方を描いていないのですが、三宮駅前はこんな感じです。市役所は1号館がなくて市会議事堂しかなかったような時代であったり、国際会館も震災前の建物です。鳥瞰図の大切さは、こうやって町の歴史が残ることだと思います。今の町を今描くのはもちろん大事ですが、鳥瞰図そのものが価値を持つのはたぶん数十年先で、今よりも数十年先の人たちの方がよっぽど楽しんでくれるのではないのかと思っています。

後ろにも原画を展示していますが、石原正さんへのオマージュということで、ニューヨークの鳥瞰図になぞらえて僕自身も神戸三宮の鳥瞰図を去年(2018年)描きました。石原正さんのニューヨークの絵図は『或る日のミッドタウン』ということで車も人も描いている絵図がありますが、それになぞらえまして『或る日の神戸三宮2018』という作品です。今年もこれを改訂して『或る日の神戸三宮2019』という絵図を描くことになるかと思います。毎年、改訂して変わりゆく三宮を残していきたいと思っています。

■函館の鳥瞰図作成に取りくむ

青山さん:
函館を描き始めています。1年以上たっているのですが、最後にそれを急ぎでいきたいと思います。「函館を描くぞ」と決めたのは2年前の10月でした。ちょうど開港150年の1年間がもうちょっとで終わるというころに「次はどこにしようか」と思い、「よし、函館をやろう」と決めました。それまでも「函館やりたい。函館やりたい」と取材を受けるごとにさんざん僕は言っていたのですが、いくら待てども暮らせども函館からは近づいてきてくれなかったのです。なので「もうしゃあない。自分から函館を描くようにしよう」と覚悟を決めました。

「#スライド」

青山さん:
2017年の11月、そして2018年の1月、5月、8月、10月と5回、のべ21日ほど大型連休の時に通いまして、歩き回って写真を撮っていきました。この時、地上撮影で撮った写真が17000枚になっています。路地という路地はすべて歩きました。函館の描画地域をこんなに細かく歩いたのはたぶんこの150万神戸市民の中で僕だけです。それは胸を張って言えると思います。「あんな路地から路地の家の隙間まで歩いたのは僕だけやな」と思っていて、上の写真なんて雪が積もっています。朝はバリッバリに凍って上を歩けるのですが、昼になってきたら溶けてきて水たまりができてビシャッ、グチャッ、「冷たっ」となりながら歩き回って撮りました。

「#スライド」

青山さん:
こうやって歩いていると地形がよくわかります。函館は山の方に近づくと坂、また坂になります。歩き回っていく課程では上っては下り、海まで行ってはまた上っては下り、あの暑い8月にもうやめてというくらい上ってまた下りてというのをひたすら繰り返しました。「こんな上まで絶対、観光客はあがってけえへんわ」という坂のいちばん突端まで上がっていました。函館の地形については、たぶん函館市民よりわかっていると自負しています。

そして函館空撮を最後に行いました。去年の10月に丘珠空港からセスナ機に乗りました。函館空港にそういう会社があったらいちばんよかったのですが、残念ながらないので札幌から飛ばざるをえなかったのです。その代わり羊蹄山というきれいな成層火山が見え、室蘭の町を見下ろしながら函館へ飛んでいきました。北海道はそこらじゅう死火山か休火山か火山ばかりです。関西にいたらこんなに火山を見ることはありませんが、火山の湖があったり、「北海道って火山ばっかりやな。すごいな」と思いました。函館山ももともと火山です。上空を飛び回りまして、この時は空撮写真を700枚ほど撮りました。

それから立ち上げ作業です。先ほど三宮の鳥瞰図で等高線ずらしの話がありましたが、函館なんかまさに等高線ずらしをしないと絵なんか描けない坂の町なので、かなり気を使います。

「#スライド:タイムラプス」

青山さん:
ここでタイムラプス動画にいきます。短い画像です。目を凝らして見てください。「秘技、5分割」というもので、僕は定規で線分しなくても5分割を目分量でできます。定規でいちいち測ると時間がもったいないので、ふだん、やり慣れていると7分割でも9分割でも定規がなくてもいけるようになります。もしそういうのがしたかったら伝授しますのでぜひ言ってください。

これは函館のSEC電算センタービルを描いているところです。僕のTwitterのトップに固定していますので、よかったらそちらでもご覧ください。フニャフニャ描いていますが、これは3~40分かけて描いているものがわずか2~30秒になっています。

「#スライド:タイムラプス」

青山さん:
右側2点は日銀の函館支店を描いています。画面上では今、下書きをしていますが、下書きの線が見えないのはペン先が黄色いシャーペンを使っているからです。黄色いペン先を使うのには理由がございまして、黄色で描くと人の目に下書きの線が見えにくいのですが、スキャナーにかける時も黄色い線はほとんど取らないのです。僕にとっては下書きの線を消す手間が省けるので非常にありがたく重宝しています。

「#スライド:タイムラプス」

青山さん:
日銀函館支店が完成するまでです。こんなふうに紙を常に回しながら描いています。根を詰めてやっているのかといえば、ラジオを聞いていたり、映画を見たり、鼻歌を歌ったり、案外、好きなふうに描いています。息を止めて描いている時もありますが、必ずしも集中しているばかりではありません。

函館を描いたことを話す青山さん

■函館のおもしろさと地形の特殊性

「#スライド」

青山さん:
スライドのタイトルは「函館の特殊性 地形を見る」ということで、ちょっと鳥瞰図から離れますが函館の町を歩いてみて思ったことです。それまで僕はほとんど神戸の町しか知らなかったのですが、他都市に行ってみて函館のよさや神戸との違いがよくわかりました。これは函館空港に着陸する飛行機から撮った写真ですが、左側にはもともとは火山だった函館山、そして右側には町が広がっています。この場所に何で函館という町ができたのかというと、ここに火山ができたからです。陸地から絶妙な距離に火山ができたおかげでトンボロ現象が起きて山の裏側に砂が堆積していくわけです。この山が津軽海峡のど真ん中すぎたら流されてしまってこんな砂州ができるはずがないのです。この微妙な距離感だからトンボロ現象が起きて砂がたまり、たまって平穏なところに湾ができるから避難港になり、避難港になるから町が育つという、火山がここにできた奇跡のようなところだと思っています。

「#スライド」

青山さん:
函館の町のおもしろさは、神戸とは違うものがあります。写真のど真ん中に赤茶色の建物が建っていますが、これは函館市役所さんです。函館市役所さんを中心にして緑の線があるのがわかりますか。これはグリーンベルトと言いますが、町を大きく分けるように何本か緑の線があります。この緑樹帯は函館の町が丸焼けになって燃えてしまい、焼け跡を区画整理した時に作ったものです。これだけの広範囲を焼いてしまう相当な火災でしたが、戦災や空襲ではなく、昭和9年の函館大火です。焼けた後に、もし火災が起きても隣の地区への延焼はなんとかして阻止する意味でグリーンベルトを作って、シムシティのような町を作るというのは内地の神戸や大阪にはない都市計画だと思います。

「#スライド」

青山さん:
最近、神戸で急激に人口が減ってきていることに胸が痛いですが、函館はもっと前から人口が減りに減り続けています。僕が初めて函館を訪問したのは2009年11月で、当時の人口は29万人でした。ちょうど明石市と一緒の人口だったので、函館を考える時に明石と比較して考えていました。それが6年後に函館を訪れたら人口がぐっと減っていて、去年、今年と訪れたらまたゾロ減っています。毎年3000人ずつ人口が減っていまして、約3年で1万人、減ってしまうのです。たかだか29万の町で3年で1万人ずつ減るというのはえらいことです。150万人口で1万人、2万人減るのとは重みが違うと思います。

後ろにも函館の原画を4点ほど展示していますが、人口が減り続けると更地が広がっていきます。建物がどんどん空き家になっていくので、空き家として残している限り固定資産税がかかりますから、どうしようもなくなるとつぶして更地にしてしまいます。更地にした後は駐車場が増えるのですが、「誰がこんだけ車とめんねん」というくらい駐車場が多いです。増える一方なので、函館駅前はすさまじく更地が広がってひどい状況になっています。駅前にあった百貨店も今年の1月には耐えきれずに閉店してしまいましたし、縮小していく町がすごい姿になっています。

「#スライド」

青山さん:
最後に特殊性ということで縮小する函館とは違うことを紹介します。津軽海峡の中に生まれた活火山から陸系砂州ができて町ができるのですが、函館山の南側は津軽海峡の潮流に激しく削られるので断崖絶壁になっています。数10メートルの直立の壁で人間がとうてい住める世界ではありません。25万人の町がある山のすぐ裏側には人が近づくことさえできないような超絶断崖絶壁があります。これは本当にすごいことだと思います。函館の端にある立待岬に行きますと、削られた急峻な直立の崖を見ることができます。

スライドの上の画像では、直立の壁に周りがくずれてきた土砂が堆積していますが、右側にたまっている岩石の量と左側にたまっている岩石の量では、津軽海峡が削ってしまうから左側の方が少ないです。激しく削られるといっても溶岩は固いのでそう簡単に削られるわけではありませんが、何千年、何万年とかけて削られていくわけです。人間は誰ひとりそこで住むことはできない、そういう世界が広がっています。

「#スライド」

青山さん:
けれども、人ひとりも住めないような激しい世界の北側にはおだやかな大都市が広がっているのです。明治、大正、昭和と幾たびも火災で焼けているのですが、焼けるごとに町をなおして、坂道を広げて、山の北側には立派な大都市が広がっています。

「#スライド」

青山さん:
そして、陸繋島の西の端に行くと上磯方面、函館湾の対岸の雄大な景色が広がっていて時間が止まっているような感じです。外国人墓地があって、「日がな一日ずっとここで外の景色を眺めたいな」という所があるのです。立待岬、町の中、ちょっと離れた外国人墓地

はわずか数キロ圏内ですが、人の住めない難攻不落の場所、大都市、そして時間の止まったようなおだやかな場所があるという、さすがに神戸にはそんなにオン・オフ感がきいた世界観はないと思うので、行った時に「函館、めっちゃすごいな」と思いました。都市の中ではやっぱりみんな時間に追われてあくせくと仕事をしているのですが、ちょっと離れたらおだやかな時間と場所が広がっているのがすごかったです。ここに行くと本当に時間が止まっています。

「#スライド」

青山さん:
最後、まとめになりますが、僕が何で函館を描こうと思ったかというと、石原さんができなかったからです。あの人は描けないまま亡くなってしまいましたので「僕が絶対、描き上げるんだ」と、完成したら真っ先に石原さんのお墓の前に持って行ってジャーンと見せたいと思っています。これは称名寺(しょうみょうじ)という函館西部地区にあるお寺で、墓石も1個1個数えて描いています。境内の中に石原さんのお墓もありますので、完成したらそこに持って行ってやったぞという感じで見せようという気持ちで函館に取り組んでいます。ご静聴ありがとうございました。

■鳥瞰図制作実演

鳥瞰図制作実演

フェリシモ:
青山さん、ありがとうございました。よろしければ制作技法の過程をご覧いただくために、今、こちらで描かれますか。

青山さん:
はい。

「#スライド」

青山さん:
鳥瞰図を描く時にふだん使っている道具は本当に少ないです。

45センチの直線定規と0.1、0.13のロットリングペン、黄色シャーペン、円テンプレート、これくらいしか使いません。これ以外の道具は本当にいらないのです。なので、鳥瞰図は結構、気楽に始められるものではないかと思います。

今、函館の空撮画像を広げていますが、ちょっとだけ説明します。これは函館の海上自衛隊、函館基地隊です。目の前にあるのが基坂で、坂の上には旧函館区公会堂があります。今は耐震改修工事中なので函館に行っても中は見学できません。左下には旧イギリス領事館があり、この一帯は函館のいちばんかっこいいところを回れる観光地です。

今日はこの子を描こうと思います。石原さんが見たら「おまえ、ふざけとんかい」と怒られると思いますけど、あんまりむずかしいのをしてこの場で火だるま状態になってもいやなので、やんわりしたものを持ってきました。

「#スライド」

青山さん:
スライドの右側が下から見た写真で、左側が上から見た写真です。3階建てです。描く前に高さを決めないといけないので、自分の中で「これくらいの高さだったらワンフロアは3.5メートルくらいかな」と決めます。3階建てなので10.5メートルですが、建物の上におでこ部分が伸びているので、これは3メートルはありすぎかな、2.5メートルくらいかな、なので、下から上まで建物のトータルの高さを13メートルにしようと独断で決めます。実際の建物は14メートルかも12メートルかもしれません。わかりませんけど、僕の中でこの写真を見ながら「これは13メートル」と決めます。

今、描く建物は1/1600で描くので13メートルを1600で割ると8.1ミリなので8.1ミリの高さにします。実際、「.1」なんか取れないので、定規で見ながら8ミリ強のところをねらっていきます。人前で描くのはめっちゃ緊張しますね。家では鼻歌を歌いながらやっているのですが、なかなかそういうわけにはいかなくてすみません。最近、老眼がひどいのでハズキルーペを今年(2019年)から導入しました。自分の中で革命が起きたように便利で、今、1.8倍を使っています。

ちなみに、ここがその建物の場所になります。これを立ち上げ作業で8.1ミリにします。直線で線をあげないといけないのですが直角定規を使うのがめんどくさいですからちょっと卑怯な手を使います。紙を下の底辺に当てて引くと、当然、直角で線が引けます。直角定

規がない時は紙があったら全然代用品になりますので便利です。これはためらい傷の連続みたいになっていますが、みなさんもぜひ使ってみてください。8.1ミリを立ち上げていきます。どうしよう、失敗したら。見られていて失敗するのはめっちゃやばいですよね。8.1ミリ、このへんだな。

「#作業中」

青山さん:
8.1ミリは僕の目分量だから実際、8.1ではないと思いますが、建物の外郭のラインだけ取ってみました。立ち上げ作業で先にロットリングで線を入れてあとで失敗してもあれなので、ちょっと写真を眺めてみます。手前の方はまっすぐで、左も右横もまっすぐ、自分で選んだのでわかりやすいです。これでむずかしいのを選んだらたぶんみなさんの前で大恥をかくことになるので簡単なもので。

「#作業中」

青山さん:
天端のラインをつないでいきます。下側と右側のラインはそのまま8.何ミリラインでつないでしまっても問題ないし、地上部分のラインをつないでしまっても問題ないです。シャッター部分もそんなに奥まっていないし、引いても問題ない、許容範囲です。

「#作業中」

青山さん:
黄色いシャーペンを使っているのは、スキャナーにかけた時に黄色い線は取らないからです。もともと僕は黒いシャーペンを使っていましたが、黒いシャーペンで線を書いてスキャナーにかけると、その線まで全部取ってしまうのです。下書きの線は後ほどパソコン上で消していくのですが、この消す作業が不毛な作業で大変なので、色を変えることを覚えていきました。最初に色を変えたのは赤色でしたが、腹の立つことに赤でも結構、色を取ってしまうのです。なので、途中から黄色いシャーペンに変えました。黄色いシャーペンは人の目にも見えにくいですが、機械にとってもほとんど取らないので僕にとって非常に便利です。下書きの線を消す手間がすべてなくなったので革命です。

そしてこの縁の部分がちょっと曲がっていて片流れの屋根になっています。0.13のペン先のロットリングに持ち替えます。先ほど0.1より0.13の方が細いと言いましたが、線を見たらわかると思います。

「#作業中」

青山さん:
手の下に汚らしい紙を置いてるのは、こぶしで紙に手の脂がのるのがいやだからです。油分がのるとインクで描こうとする時にはじいてしまうのです。描いても描いても線が水玉模様になってしまったらイラっとするので極力指でさわらないようにしています。それでも1枚の紙をひと月、ふた月ずっと扱っているとさわってしまいますけど。

屋根が傾いているこの部分は先ほど僕は2.5ミリくらいと自分の中で決めました。2.5ミリということで何ミリ下げるか、2000割る1600で1.25ミリ下げです。「めんどくさい。何で1ミリじゃないんだよ」とか思いながら、1.25下げ、このへんです。自分で決めた数字のルールに則って描いているので、それが合っていても間違っていてもすべて自分で決めたルールという所です。片流れの屋根なので低い方と高い方をつなぎます。

「#作業中」

青山さん:
これで一応屋根が完成しました。こんなもんですね。そしてあとは外壁部分です。

「#作業中」

青山さん:
ためらわずにがんがんいきます。3階建てだったのでワンフロアが2.2ミリ。ワンフロアはこんな感じで、3階部分に窓。

「#作業中」

青山さん:
真ん中を取ってシャッター。紙をひっくり返して、そして2階の窓です。

フェリシモ:
青山さん、ありがとうございます。こちらで一度休憩を挟ませていただきまして、また後半に向けてご準備いただければと思います。では、一度失礼いたします。

第2部

フェリシモ:
ただいまより第2部を開演いたします。青山さん、第2部もよろしくお願いします。

青山さん:
よろしくお願いします。実演の方は始まるとすぐに完成すると思いますので、あともう少しだけおつきあいください。

せっかくなので一瞬だけ。これは青函連絡船の摩周丸です。函館なので摩周丸があるところを描いています。実際、この船が停泊しているのはもう少し違う位置ですけれども、連絡船時代をイメージして貨物列車が中から出てきている感じにしています。鳥瞰図は人が描くものなので、ある程度、人間のさじ加減で変えることができます。ということで、最後、窓を完成させていきます。側面の窓はたかだかしれているので一瞬で終わると思います。

「#作業中」

青山さん:
というところで、先ほどの建物です。こんなふうに描いています。ありがとうございました。

フェリシモ:
ありがとうございます。

「#拍手」

実演中

フェリシモ:
それでは続きまして青山さんへのご質問のコーナーにうつらせていただきます。

質問1

お客さま:
函館以外に世界で描いてみたい町はありますか。

青山さん:
世界だから日本の中ではまずいですよね。世界で描きたいところ、そうだな、やっぱり僕は船が好きなので、港にちなんだところを描きたいです。初めて行ったドイツのハンブルク港が楽しかったので、ハンブルクを描けるのなら描いてみたいと思います。そういう意味で、描くなら海外の中でも港町を描きたいと思います。

質問2

お客さま:
Googleマップなどは使われますか。また、Googleマップだけで鳥瞰図を描くことは可能なのでしょうか。

青山さん:
はい、めっちゃ使います。Googleさんがないと鳥瞰図は描けない部分もあります。先ほど空撮したり、地上を歩き回って撮ると話しましたが、もうひとつ必要な道具がありまして、Googleの真上から見下ろした空撮画像は絶対に必要です。物を立体化する時には、真俯瞰で見た建物の絵と、斜めから見下ろした空撮画像と、下から見上げた分との3種類の物を正確に見極めて描かないと正しく細かくは表現できないのです。なので、Googleマップの真俯瞰の空撮画像は絶対、必要な道具になります。時々困るのは、Googleさんの画像が2、3年前とか3、4年前とちょっと古くて真俯瞰の画像に建物がもう載っていないことがあります。そういう時はなんとかがんばって斜め空撮画像を読みといて描きますが、やはりGoogleの画像は非常に大事なものです。

逆に、Googleだけで描けといわれた場合、無理矢理3D化してみると結構、機械で勝手に加工されたりして画像が不鮮明なところがあるので、正確な鳥瞰図を描こうと思うときびしいかもしれません。あと、そのGoogleの画像がいつのものなのかわからないということがありますから、石原正さんにもしそういうことを言うとめっちゃ怒られると思いますが、Googleの画像だけで鳥瞰図を描こうとすると、たぶん正確ではないものになると僕個人は思います。その時にあった室外機がどうなのかというところの正確性を突き詰めていこうと思うと、Googleだけに頼ると正確なものではなくなると思うので、そういうものを胸張って世には出したくないと思っています。というのは、やっぱり石原正さんに怒られたくない気持ちがあるからです。

質問3

お客さま:
鳥瞰図にする時の建物の角度は作成する用途によって変えるのでしょうか。

青山さん:
表現するとむずかしいのですが、鳥瞰図には基本、角度というものがありません。アイソメトリックの鳥瞰図は角度がないですが、強いていうならば45度というのですかね。どう言ったらいいかな、地図をベースに鳥瞰図を描いています。ここに函館の地形図がありますが、この上にトレーシングペーパーを乗せて建物の輪郭を取って、建物を1棟1棟描いていくので、これそのものには建物を何度から見下ろしているかという概念がたぶんないと思います。強いて言えば45度じゃないかと思います。消失点を持っている鳥瞰図ではないので世界観がたぶんちょっと違うと思います。ごめんなさい。

フェリシモ:
ありがとうございます。先ほどのお話の中で、今後、建物が改装されることも考えて建物を描く角度は気にしておられると裏で伺ったのですが、それもふまえて描かれているということですよね。

青山さん:
特にお客さまから言われてこの角度から見やすいようにというのもあれば、町全体としてこの角度から見たらかっこいいだろうというところから描くこともあります。神戸の鳥瞰図、みなと神戸バーズアイマップシリーズにつきましては、石原正さんが過去に描かれた1981の神戸絵図と定点対比がしたかったので、同じ角度で描いています。先ほどポートアイランド博覧会があった時の神戸と僕の描いた2017年の鳥瞰図を定点対比しましたけど、定点対比ができるのは同じ角度で描いているからです。あれはもう、石原さんと比べたかったというそれだけです。

フェリシモ:
町の変化が比較できるように描かれるなどの工夫もされているということですね。ありがとうございます。

質問4

お客さま:
先ほど絵の中に自分で好きなストーリーを入れるというお話がありましたが、石原さんはそういうことはしていらっしゃらないのですか。

青山さん:
隠し絵につきましては石原さんの方がもっと上手(うわて)だと思っています。僕の隠し絵はあまりおもしろくない方で、その中でちょっと考えてやってみたのがあれでした。石原さんはもっと絵を描くのがうまいので、絵の中に似顔絵をひそませたりしています。特にニューヨークの鳥瞰図でいいますと、リンカーン大統領や、ケネディ大統領、ルーズベルト大統領、ワシントン大統領といったアメリカの有名な大統領さんの顔をセントラルパークの森の中に隠しています。あと、すごく僕の中で好きなのは、タイタニック号をニューヨークの絵の中に入れていることです。なぜ最近の鳥瞰図にタイタニック号を入れるのかというと、タイタニック号は氷山と衝突して結局ニューヨークにたどり着くことができませんでしたが、「絵の中だけでも到着させてあげよう」という描き手の思いがかっこいいなと思って、そういうかっこいい隠し絵をできたらいいなと思っています。石原さんは僕よりもっと粋な隠し絵をたくさん描かれています。

質問5

お客さま:
1枚の鳥瞰図を描くのにどれくらいの期間がかかるのでしょうか。また、改修する場合は以前描いた鳥瞰図はどれくらいの期間、使うことができるのでしょうか。

青山さん:
最初に描くのが本当に大変で、先ほどのパワーポイントにもありましたが、初めて描いた大作の方の鳥瞰図は3年半ほどかかり、大阪梅田にしましても2年半くらいかかりました。函館に至っては2年前の10月に「よし、やるぞ」と取材を始めましたが、1/3くらいの状況なのでまだ1年以上はかかりますし、ずるずると遅れる一方なので最終完成まで何年かかるのかよくわからない状況です。最初に描く時は本当に時間がかかりますが、改訂する時は案外早くなおすことができます。あと、いつまで使い続けられるのかというと、絵そのものは最新の物ではないので、過去の姿としての歴史を残すという意味ではずっと使い続けられる物になるのではないでしょうか。

質問6

お客さま:
ロットリングの製図から液晶タブレットなどのオールデジタル製図への変更は考えておられますか。

青山さん:
僕が最初にこいつと出会ったのが高校の時で、今日、元副担任の方が来られていてびっくりしたのですが、学校で買ったロットリングが好きでいまだに変わらず使い続けているので、これからもこいつとはずっといいつきあいをしていきたいと思っていて、あまり筆記具を変えるとか考えたことがないです。ですけど、今の時代、なかなかロットリングを使う人がいないので、どんどん新しいものに変わっていくというか、もともとカラス口で線を引いていたのがカラス口がすたれてロットリングに変わっていったように、ロットリングもまたすたれてその次のものに変わっていって、物が手に入らない時代がくるかもしれません。そういう時には「もう仕方ない。ミリペンでいこう」と切り替えていくことがあるかもしれません。

質問7

お客さま:
都会の鳥瞰図と自然風景の鳥瞰図、青山さんがお好きなのはやはり都会の鳥瞰図でしょうか。教えてください。

青山さん:
超高層ビルが建ち並んでいる鳥瞰図が大好きです。田舎もやってみたら楽しいのかもしれませんが、木ばかり描くのがあまり楽しくなくて、摩天楼を描いている方が「よし、やった」という感じがするので好きです。

質問8

お客さま:
地図と絵の違いはどこにありますか。また、鳥瞰図はどちらに分類されるのでしょうか。

青山さん:
むずかしいです。鳥瞰図は絵か地図か、たぶんあいのこ、真ん中ではないかと思うのですが、地図を立体化したものですし、でも、僕の描いている鳥瞰図は遠近感のない地形図をベースにして立ち上げていく鳥瞰図ですが、ほかの作家さんの中には遠近感のある鳥瞰図を描かれる方もいらっしゃいまして、そういう方の作品はどちらかというと絵に近いかもしれません。僕の鳥瞰図はどちらかというと絵よりも地図に近いのかもしれません。そして地図よりも正確に町の記録を残す第一級の資料だと思っています。あまり答えになっていなくてすみません。

質問9

お客さま:
青山さんの神戸の町でいちばん好きなポイントがあれば教えてください。

青山さん:
旧居留地の中の海岸通です。上海バンドになぞらえてよく神戸バンドと呼びますが、海岸通の景観がいちばん好きです。見ていて飽きません。

旧居留地の中の海岸通の鳥瞰図

質問10

お客さま:
鳥瞰図の技法でミクロの世界を描くことは可能なのでしょうか。

青山さん:
ミクロ、どれくらい小さい世界なのですかね。尺度を変えていけば、小さい世界も描けると思います。昨日、僕は倉敷に行っていました。岡本直樹さんという鳥瞰図絵師さんがいらっしゃるのですが、その方は1/500というスケールにこだわって描かれています。僕よりも一層大きく描かれるので、井戸端会議をしているおばちゃんたちがいたり、普通に町中で歩き回っている人たちを描かれているので、尺度を変えていくことによってより生活感を表現できる手法かと思います。でも、1/500とか、それより小さい、例えば400や300としていくと、あまり広い範囲を描けなくなっていきますから、何を描きたいかによって尺度は変わっていくと思います。狭い範囲の中で生活感を出したいとか、より広い範囲で町のいちばんいいところをカバーしたいということで自ずと作る物が変わってきます。やれるのはやれると思います。

フェリシモ:
ありがとうございます。以上で質問のお時間を終了とさせていただきます。たくさんのご質問をいただき、ありがとうございました。それでは、最後に青山さんに神戸学校を代表して質問をさせていただきます。改めまして、青山さんが一生をかけてやりとげたい夢について教えていただけますでしょうか。

青山さん:
鳥瞰図をやろうと決めた時に思ったのは、鳥瞰図文化を廃れさせないということでした。今、友人関係でTeam Bird’s Eye(チーム バーズ アイ)を作っています。4、5人いるのですが、上の人はもう70歳くらいで、昨日、「あと一作描けたら私の鳥瞰図人生はもう最後かな」という話をしていました。あと10年するかしないうちに今、日本で鳥瞰図をがんばっている人たちが消えていってしまうので、本当にもうこの先がないのです。「何とかしてやりたいという人を次につなげていきたい。そのために僕がやり続けないといけない。この文化を日本に残したい」と思います。

青山大介さんと写真撮影

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