推しがいたことが、一度もありません。
それ自体はずっと気にしていなかったのに、いつのころからか、なんとなく寂しいような気持ちがうまれてきました。
この記事では、その寂しさの正体を一緒に探りながら、推しがいてもいなくても、今の自分を心地よく過ごすためのヒントを考えていきたいと思います。
推し活歴ゼロです

テレビをつければ推し活特集。百均にも推し活グッズがあふれている。職場の雑談では「どのグループが好きなの?」と聞かれる。SNSを開けば、誰かをめでる言葉があふれています。
○○推しの△△さん、という具合に、いつの間にか「誰を好きか」が、その人を表す言葉になっていました。
初対面の人との会話でも、推しの話題が出た瞬間にぱっと顔が明るくなって、そこから一気に距離が縮まっていく場面を、何度か見てきました。
推しは趣味の話ではなく、その人の人柄や感性を伝える”自己紹介”のようなものになっている気がします。でも私には、その肩書きがありません。
「好きなアーティストは?」と聞かれてもすぐに答えられなくて、なんとなく話題をそらしてしまう。みんなが自然に持っているものを、自分だけ持っていないような感覚。手ぶらで来てしまったような、少しだけ居心地の悪い感じ。
20数年以上生きてきて、なぜ見つけられなかったんだろうと思うこともあります。
推しがいないことは、別に悪いことではないとわかっています。でも、どこか寂しいのです。
言葉にしにくいモヤモヤ
推しがいないことで感じる寂しさは、うまく言葉にしにくいものです。そのその寂しさがどこから来るものなのかを整理してみましょう。
共通言語に乗れない
推し活は、もはや会話のインフラのようなものになっています。グループ名、推しメン、現場の話。その話題についていけないとき、会話の外側に立っているような感覚になりませんか。
熱量に温度差を感じてしまう
楽しそうに語る人たちをまぶしいと思う反面、同じ熱さで乗っていけない自分もいます。否定したいわけじゃない。ただ、どこか少し冷めて他人事になってしまうのです。
あのころ以来、心が燃えていない感覚
学生時代の文化祭や部活の高揚感。
あのころと同じような連帯感を感じて、アラサーになっても心を燃やせている人たちが、正直うらやましいです。
自分にとって、あれが最後だったのかもと思うと、少し寂しくなります。
好きはあるけど、推しと呼ぶのが怖い
好きなカフェはある。よく聴くアーティストもいる。
でも熱量が足りない気がして、推しと名乗るのがおこがましく思えてしまいます。
ちゃんと好きじゃないと言っちゃいけない気がして、自分の気持ちをそっとしまい込んでしまいがちです。
自分の温度を大切にするヒント

推しがいてもいなくても、毎日の豊かさは変わりません。自分にあった温度で、心をうるおすためのヒントを一緒に探してみましょう。
好きの温度は、自分が決めていい
だれかと比べて「これじゃ推しとは呼べない」と思う必要はありません。
何度も再生してしまう曲も、つい読み返してしまう本も、それはもう十分に好きなのだと思います。
好きの大きさは、自分の心だけが知っています。
自分を推す、という選択肢
誰かを応援するエネルギーを、自分に向けてみませんか。
定時に上がった日にサウナへ行く、部屋に一輪の花を飾る、ずっと気になっていた文房具を買う。
自分のご機嫌を取るための小さな行動が、実は推し活と同じ構造をしているかもしれません。
ちょっと好きを、日常に散りばめる
推しがいなくても、ときめきは作れます。
お気に入りのカフェで過ごす時間、好みの照明、週末だけ飲む特別なお茶。
暮らしのなかに自分が気に入ったものを少しずつ置いていくと、毎日がほんの少し豊かになっていきます。
周りの好きを借りてみる
誰かにすすめられたものを素直に試してみる。
その感想をシェアし合うことで、推し活がもたらすあの共感の熱を、自分なりのかたちで味わえます。
新しい趣味に出会えることもあるし、同じ気持ちを分かち合えるだけで、あの寂しさが少し和らぐかもしれません。

