「今は、以前よりもいろんなことに対して力が抜けたような気がしています」
初夏のやわらかな光が差し込む街角。そう言ってふんわりとほほえむのは、健康食品や化粧品の通信販売を行う会社で、顧客向けの月刊冊子の編集長を務める板橋今日子(いたばし・きょうこ)さんだ。
約3年前、マーケティング担当として「やりたいことではなく、自分の大切にしている考えとマッチするかどうかを軸に選択したい」と凛とした表情で語っていた彼女。
当時から自分の価値観を大切にしていたけれど、振り返ると「当時はもう少しかっこよくありたいと背伸びしていた部分もあった」と照れくさそうに明かす。
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同じ会社で年次を重ね、先輩からバトンを受け取って冊子の「編集長」という重責を担うようになった板橋さん。 しかし、その表情から感じられるのは、重圧や力みではなく、どこか澄み渡った軽やかさだった。
「かっこいい自分」という鎧を脱ぎ捨て、自分の弱さも、曖昧な感情もまるごと抱きしめられるようになった彼女の、その後の物語を聞いた。
自分自身と本気で向き合った編集長就任
現在、板橋さんは自社で発行する月刊冊子の編集長として、企画からディレクションまでを一手に引き受けている。
2026年の1月号からは、タイトルやコンセプト、誌面デザインまでを一新する大幅なリニューアルを手掛けた。
3年前のインタビューでは「売上以上にお客さまとの縁を大切にする会社の姿勢に共感している」と語っていたが、いざ冊子全体を背負う立場になったとき、彼女の心には大きな葛藤が生まれたという。

板橋さん: 編集長を引き受けるかどうかを決めるときは、本当に悩みました。自分の中では、会社を離れるか、編集長を引き受けるかというくらい大きな選択だったんです。最初は「会社の冊子なのだから、100%会社の色でつくらなければいけない」と少し肩肘を張っていました。でも、それではどこか偽物のようなものしかできないような気もして……。
会社員として働く以上、会社の思想と自分のやりたいことのすべてが重なるわけではない。けれど、自分が心から信じられないものを「読んでください」とお客さまに届けるのは不誠実ではないか。
板橋さんは改めて、「なぜ自分はこの会社に入りたいと思ったのか」「自分が本当に大切にしたい価値観とはなにか」を深く掘り下げていったそう。そんな彼女の背中を押したのは、社長から掛けられたひとことだったという。

板橋さん: 社長が「板橋さんの人格から出てくるものなら、ずれたものにはならないと思っている」と言ってくれて。完成したあとも「どんなものができても、きっとOKを出していた」と言ってもらえたんです。その言葉を聞いたとき、自分がこの会社に惹かれた理由を改めて思い出しました。こんなにも信じてもらえる環境があるなら、自分の心に嘘をつかずに全力を出そうと思えたんです。
白黒つけない「あわい」の美しさ
言葉にならない気持ちに寄り添う一冊
肩の力を抜き、自分の想いにまっすぐ向き合った板橋さんが打ち出した新しい冊子のコンセプトは、「あわい」という言葉だった。

物事をAかBか、白か黒かではっきり分けるのではなく、その間にあるグラデーション。効率やわかりやすさが求められる時代にあって、言葉にならない曖昧な感情や、日々の生活の中で抱く小さなモヤモヤにこそ、いとおしさが宿っているのではないか。
板橋さん: 目まぐるしい日々においては、よくも悪くも、早くて、わかりやすいことを求められる場面が多いように感じます。でも、人の気持ちはそんなに単純なものではない気がして。例えば「健康になりたい」という言葉の奥にも、子育てのイライラや毎日の食生活への罪悪感など、ひとことでは表せない「あわい」があるはず。会社が昔から大切にしてきたのは、まさにそうしたお客様一人ひとりの生活や、言葉にならない想いに寄り添う姿勢でした。だからこそ、わかりやすい言葉にまとめようとしてこぼれ落ちてしまう大切なものを、この冊子でていねいにすくい取りたいと思いました。
会社の原点にある想いと、自身の価値観をじっくりと重ね合わせて生まれた「あわい」というテーマ。それを掘り下げる作業は、編集長として誌面をつくるプロセスであると同時に、板橋さん自身が「曖昧で不完全な自分」をそのまま受け入れていくプロセスでもあったと、彼女はうれしそうに語る。
ひとりでは何もできないと知ったから。
自分の想像を超えるために「人に委ねる」
自分の大切にしたい想いを明確にし、新しい冊子の世界観を立ち上げた板橋さん。
しかし、それをかたちにしていくプロセスにおいては「ひとりで抱え込むのをやめる」という大きな意識の変化があったそう。
3年前は「自分に足りないものばかりに目が向き、何でも自分の力で補おうとしていた」という彼女。素敵な表現に出会うたびに「どうして自分はこんな表現が出来ないんだろう」と落ち込むこともあったという。

板橋さん: この3年間でいちばん大きく変わったのは、「ひとりでは何もできない」と実感したことです。自分にないものを持っている人が周りにいるのなら、その人たちと一緒にいられることの方がずっと大切なんだと気づきました。今は、素敵な写真を撮れるカメラマンさんやデザイナーさんに声をかけられる環境にいる喜びを、どうすれば最大限に活かすことができるだろうと考えます。
現在、彼女は5年目となり、社内では後輩二人とともにチームで冊子をつくっている。大きな方向性は自身が決めるものの、具体的な表現はクリエイターや後輩の感性に委ねるようになった。
板橋さん: 自分の想像の範囲内で細かく指示を出してしまうと、きっとそこまでのものしかできません。どこかでボールをぽんと投げて相手に委ねる。会社から「あなたがつくるなら大丈夫」と信じてもらえたうれしさを、今度は私がかかわってくれる人たちの感性を信じることで返していきたいんです。
「今あるもの」を満たしていく。
計画のない人生をいとおしむ軽やかさ
仕事でチームを引っ張る一方、26歳になった彼女の周りでは、友人たちの結婚や出産、海外駐在など、それぞれのライフステージが大きく枝分かれしはじめていた。
SNSを開けば、明確なキャリア計画を立てて突き進む同世代の姿も目に入る。「30歳」という年齢が近づくにつれ、わかりやすい基準や将来への焦りがノイズのように聞こえてくることもある。
板橋さん: 友人の中には「20代で海外駐在する」と目標を立てて実現するかっこいい人もいます。以前の私は、自分に人生計画がないことに焦ったり、できていないことばかり見て悩む時間が多かった。でも、そういう時間はもったいないかもしれないと感じるようになったんです。
かつて「やりたいこと」ではなく「大切にしたい軸」で進路を決めたように、彼女は今も遠い未来の計画ではなく「今、目の前にある縁や感情」をいとおしむ生き方を選んでいる。
例えば、「海外へ行きたい」と思えば、何かを得て帰らなきゃという気負いもなく、その瞬間の衝動に素直になって旅に出る。趣味であるカメラで、彼女が撮影したいと思うものも、街角の何気ない風景や、友人が笑い合っているときの手指の動きといった「名もない日常の一瞬」だ。

板橋さん: 観光地よりも、日常の延長にありながら「今、この空気の中にしかないもの」を撮りたくなるんです。遠い未来のために今を犠牲にするのではなく、今すでに満ちているものを存分に受け取る練習を、ずっと重ねてきた気がします。
「今の自分が好き」と言える道を進む
「計画がないこと」をどこか不安に思い、完璧さを追い求めて背伸びしていた3年前。
現在の板橋さんは、自分を大きく見せることなく、大好きな人たちと手を携えてひとつの表現をつくりあげる喜びに満ちている。
板橋さん: 以前は、まず自分を高めなければいけないと思っていました。精神的にも自立して、自分ひとりで立たなきゃいけないって。でも、自分が好きな人や尊敬する人たちと一緒にいることの方が、自分をつくってくれるのだと感じるようになりました。自分では価値がないと思っていた部分を「そこがいいよね」と言ってくれる人の言葉を集めて、「この人がそう言ってくれるなら、自分を信じてみよう」と思える。自信って、そうやって育つものなんだと思います。

これから30代を迎えるにあたり、具体的な目標やゴールは「あえて決めていない」とやわらかく笑う。
板橋さん: 3年後、4年後に、今の自分には想像もできない場所にいられたら、それはそれでおもしろいと思うんです。30歳になった自分が、「今の自分、好きだな」と思えていたら、それで充分。自分の気持ちに嘘をつくような選択さえしなければ、きっと大丈夫だと思っています。

