[2025/07.01]

暮らしのお買いもの

【このごろコラム】
文字の顔

わたしにはとても大切な、特別な人がいる。
その人のことを「愛しいひと」といつも表現する。
大学で出会い、それから毎年誕生日に手書きのお手紙を渡し合うのがルールになっていた。
社会人になり、フリーターを選んだ彼女と就職をしたわたしとではなかなか時間が合わず、毎年欠かさず渡していた手紙は5年目でストップした。

言葉の伝え方は大きく2種類ある。声と文字だ。
わたしは昔から、声で自分の気持ちを表現することがとても苦手だった。
怒られると黙る、意見を聞かれたら答えられない。
その場しのぎの言葉やノリで放った言葉で誰かを、自分を傷つけることが怖かった。文字で表す方がよかった。
読み返して、確かめて、伝えたい気持ちに隅から隅まで目を合わせ、わたしなりの言葉で、わたしなりの組み合わせで渡せるから。
それは今も同じ。
でもどうだろう。画面に入力された文字には顔がない。
言葉の選び方や文法で感情や想いを乗せることができても、顔がない。

特別な日に送る言葉には、彩を加えたい。
どんな筆記用具を使うかで文字の印象は変わる。
そんなときに使いたいと思いついたのは、万年筆とお気に入りのイラストが描かれたメモ文具セット。

万年筆は慣れるまでむずかしいと聞くけれど、そのぶん、1本1本の線を慎重に書くことができる。
書き慣れない万年筆を使って丁寧に1文字1文字に目や鼻を書くように言葉を書きたい。

大切な人にお弁当を作ってあげられる日が来たとする。
気合いが必要な日には、ありきたりな言葉かも知れないけれど、その中にわたしらしさを手書きの字にこめてお弁当の袋にそっと入れておきたい。

パソコンやケータイの画面に入力された文字には乗せられない気持ちが、手書きの文字には宿る。
文字の顔が見えるようになる。
字がきれいかどうかなんて全く重要じゃない。
価値観が人の数だけあるように、人の字も人の数だけある。
同じ字を書く人はいないから、手書きの文字にはその人の顔が見えるのだと思う。だから温かいんだ。

「書く」ことを作業にしたくない。
単なる情報伝達の手段としてではなく、「書く」ということそのものを楽しむことができるのが万年筆のよさだと知った。
書き慣れたボールペンで書く自分の字も言葉も好きだけれど、万年筆で書くと書きたい言葉も変わってくる。
紙の素材や柄によっても文字は顔を変える。

気持ちを表現するとき、手で書くという手間を楽しみ、感情に丁寧に寄り添いたい。
それは誰かに向けたものだけでなく、自分のことを書き留めておくときも同じ。
せわしなくすぎていく毎日では自分の気持ちに向き合うことすら忘れてしまう。
書き留めておきたい感情が多すぎるわたしは、「夜眠る前にこのことを考えよう」「この言葉の意味が知りたい」とケータイのメモに乱雑に言葉を打ち込む。
結局向き合えずに時間がすぎ、メモに残した言葉は数日、数ヶ月と忘れ去られる。(また目を合わせられずに終わった)

向き合いたい自分の気持ちにも、丁寧に接したい。
お風呂に入る前は面倒でも、入って後悔しないのと同じで、忘れないうちにペンを持ち始めればわらわらと書く手がとまらなくなる。
万年筆を使えば自然とゆっくり文字を書くことができる。
この瞬間もまた、気持ちに向き合う時間になる。
やっぱり手で書くことをめんどくさがりたくないなと改めて思う。

記憶というのは曖昧だから思い出というものがあるし、思い出は生きる理由になる。
けれど、曖昧にしておきたくないことというのは人生にいくつもある。

愛しい人と交換した手紙に何度助けられてきたかわからない。
当時の彼女がわたしに向けた想いは、いつまでも形を変えることなくここにある。
受け取り方は変わっても、彼女が手書きで書いた言葉は当時の彼女の顔のまま、わたしに何度も想いを伝えてくれる。

言葉は凶器になる。つまり、それほどまでに人の心を動かすということ。
感情は、すべてを言葉にはできないけれど、絵には言葉にできない気持ちを伝えてくれる力がある。
このポストカードを使って愛おしい人に3年ぶりに手紙を書こうと思った。
どんな彼女も支えられる、味方になれる言葉を書いて渡そう。

これから先、誰かに言葉を届けるとき、声か、画面の文字か、それとも手書きの文字か、どんな手段を選ぶのだろう。
でも、特別な気持ちを伝えるときにはやっぱりわたしは「手書きの文字」に戻りたくなるのだろう。
ペンを持ち、やさしく握って紙にインクが擦れる感覚を味わいながら文字に想いを乗せる楽しさを、忘れたくないなと思う。


今回登場した『メモ文具セット』はこちらから▼

STAFF
photo & text :十=10