[2025/06.17]

暮らしのお買いもの

【このごろコラム】
カップの中に浮かぶ風景
日々のかたち、それぞれに。

憂鬱も罪悪感も溶かしてゆく、
失敗の日の夜に。

やってしまった。
社内全体をざわつかせるほどのミスをしでかしてしまった。

あぁ、ショック。
絶対にミスはないようにと、あんなにも確認したのに。

先輩や上司が、決して怒鳴りつけることはせず、「次から気をつけてね」と言ってくれることで余計に罪悪感が募る。

同僚も飲みに誘ってくれたけれど、どうしてもそんな気分にはなれず、断ってしまった。
昼休みには恋人に電話して泣きついてしまった。

午後の業務をどうやって終えたのか、もう、覚えていない。

帰宅すると、恋人がいつも通り迎えてくれた。
言われるがまま、シャワーを浴び、夕飯を食べ、ソファに深く腰掛けた。思わず、ため息がこぼれる。

「今日はおつかれさま、がんばったね」
そう言って恋人はテーブルの上にプリンを置いた。

え、これって……
驚いて恋人の顔を見ると、見透かしたように笑って
「好きでしょ?ここのプリン」と言った。

昼間の様子を受けて、買ってきてくれたのだろう。生クリームまで添えてくれたところが恋人らしい。

「今、コーヒー淹れるから待っててね」

しばらくして、マグカップを手渡された。
「”仕事で怒られちゃったあとに飲むコーヒー”だよ」

なにそれ、と笑ってひと口飲むと、コーヒーは喉もとを流れてストンと落ちた。やさしい苦味が口の中に広がった。

おいしい。
小さく呟いたのが聞こえたのか、恋人は笑いながらプリンをすくって差し出してくれた。

お気に入りのプリンは相変わらず濃厚で、おいしい。けど、カラメルはほろ苦かった。

コーヒーはマグカップの中でゆらめいている。今の気持ちを表しているようだった。

温かいコーヒーをゆっくり飲んでいると、少しだけ穏やかになれるような気がした。

ミスを無かったことにはできないけれど、きっと大丈夫、明日からまたがんばろう。
これを飲んで、そんなふうに思えた夜だった。

せわしない日常を抜けた、
穏やかな休日の朝。

日曜日の朝、目覚めたらカーテンの隙間から淡い光が溢れていた。
枕もとの時計は5時55分を示している。

ふだんなら二度寝をしてしまうところだが、起き上がってカーテンを開けた。外はだいぶ明るかった。

あぁ、夏が来るなあ、なんてぼんやりと考える。
窓を開けると、網戸の向こうからひんやりとして穏やかな風が吹き込み、レースのカーテンを押し上げてはやさしく引き戻していく。
その温度に、まだ夏ではないのだとも実感する。

せっかく早起きできたのだから、しっかり朝ごはんを食べようと思った。お気に入りのパン屋さんへ行こう。

パンを買う以外の目的はなかったが、いつもよりしっかりめに身支度をした。ワクワクしていた。

パン屋からはパンの焼ける香りが漂っている。食べる分だけ、と思いつつ、ひとつ、またひとつと手が伸びてしまう。
コーヒーでも淹れて、この子たちを堪能しようと考える帰路、ふと思い出す。

やっぱりあった、納戸から巾着を取り出す。
“早起きできた朝に飲むコーヒー”

湯を沸かす間、裏の「おいしい淹れ方」をよく読んだ。ティーバッグタイプがらくちんでうれしい。

ホットがおすすめなのかな。でも今朝は、アイスの気分。
濃いめに抽出して、氷を入れた。

パンを皿に並べ、コーヒーと共にダイニングテーブルにつく。
コーヒーのまろやかな苦味と、香ばしい小麦とバターの香り、そしてふわっとした口当たりに、こわばった何かが徐々に解けていくような感じがした。

新卒で今の会社に滑り込んで数年、昇格してからは2年目になっていた。
同じ会社でも、立場が変わるだけで責任の重さや景色が一変し、気づけば1年目が過ぎていた。こんなに穏やかな朝はいつぶりだろう。

またひと口、コーヒーを味わう。今日は充実した休日になりそうな気がした。さて、何をしようかな。

静かな夜のオフィスで一息、
琥珀色の寄り添いと覚悟。

「え〜!”こんなことで”残らなくていいんだよ〜!」

先輩はいそいそと帰宅の準備をしながら、眉毛を八の字にして甲高く言った。

笑うしかなかった。
今日終わらせなければ、連休明けの締め切りには間に合わない。

自分だって残りたくない。できれば今すぐにでも帰って、ビールを流し込みたい。
でも、この仕事には誇りを持っている。やりがいもあって、クライアントも期待してくれている。
自分のためにも、先方のためにも、腹をくくっているのだ。
それを、”こんなことで”と言われてまで——。

黙ってニコニコしていたら、先輩は眉尻を下げたまま「無理しないで〜」と言って帰って行った。

悪意はないのだろう。それでも、腹の底に何かが溜まっていくような感覚から逃れられないでいた。

いったん落ち着こうと思って立ち上がると、そこに後輩が立っていた。
はい、と手渡されたのは白いパウチとなじみ深いパッケージに包まれたクッキー。
自分が残業に覚悟を決めていたことも、先輩に何も言えず笑顔でやり過ごしたことも、見ていたのだろう。じゃ、おつかれさまです、と去って行った。

白いパウチはどうやらコーヒーらしい。”残業中に飲むコーヒー”と書いてある。なんとも粋である。
お湯を入れるだけ、ドリップバッグ以上に簡単そうだ。ありがたい。

湯気とコーヒーの香りが立ち込める。それだけで、不純物はじわりと溶けていくように思えた。

落ち着く味だ。懐かしく甘い菓子ともよく合う。
もういやな塊は無くなって、コーヒーの後味がすっきりと残っているだけだった。

ほっと息を吐く。

さあ、片付けてしまおう。コーヒーは琥珀色にきらめき、ただ静かに寄り添ってくれていた。

今回登場した『このごろコーヒー』はこちらから▼

STAFF
photo & text :千凪 -Sena-