#42 [2026/05.01]
わたしたちの、このごろ
自分の生き様や成長する姿を見せることで、誰かの希望になりたいんです
植野さくらさんSakura Ueno
こう語るのは、就労支援事業所で働く植野さくら(うえの・さくら)さん、24歳だ。
「わたしの紆余曲折が、誰かの力になる気がして。話を聞いてほしいと思ったんです」
そう言って、インタビューを直接依頼してきた植野さん。
彼女は、かつて利用者として通っていた就労支援事業所で、今は支援員として働いている。
自己の苦しさを開示してまで、誰かの希望になりたい。彼女がそう願うようになるまでには、人と関わることをあきらめないための、紆余曲折があった。
リーダーシップのあったこども時代
大阪府の家庭で末っ子としてうまれた植野さん。甘えん坊で活発な幼少期を過ごし、「リーダーシップのある子だった」と振り返る。
植野さん:みんなで仲よくしたい気持ちが人一倍強くて。友人たちに「ついてきなよ!一緒にあそぼうよ」って声をかけてひっぱっていくタイプでした。
みんな仲よく、楽しい方へ。友人たちを導きたかったのは、本の中で出会った”強い女性”へのあこがれからだった。
植野さん:毎週図書館に行っていて、伝記をよく読んでいたんです。そこから卑弥呼やジャンヌダルクのような、平和に向かって人々を導いていく強い女性にあこがれるようになりました。

自分をつらぬいたら
ひとりになった
本に加えて、成長するにつれてふれるようになったのが、映画と音楽。とくに海外の作品との出会いが植野さんの”好き”の世界を大きく広げていったという。
植野さん:学校の英語の授業で、ビートルズが題材になったことがあって。みんなは普通に聞いているんですけど、わたしだけは授業どころではなくて(笑)「なんだこれ!」って衝撃が走りましたね。
幼いころから、自分の好きなものが明確だったという植野さん。観るもの、聴くもの、身につけるものすべてにおいて、自分の”好き”をつらぬいた。
その一方で、中学生になると人間関係は次第にうまくいかなくなっていったんだそう。
植野さん:正義感が強すぎて、同級生と衝突することが増えて。自分が正しいって思っていることが必ずしも相手の正しさではない。人って違うんだな、みんな仲よくってむずかしいのかもということに気づきはじめ、人と関わることが少しずつ怖くなってしまったんです。

学校でもひとりでいることが増え、さびしさがふり積もっていく日々。そんなころファッションショーをつくる団体に入っているある高校生との出会いが、植野さんを突き動かした。
植野さん:自分の”好き”を服やショー全体で表現すること。その人がとてもかっこよく見えて。わたしも高校生になったらこれがしたい。そう思いました。
「映画をつくると、友達できるよ」
念願かなって、高校から外部のファッションショーをつくる団体に入った植野さん。
学年も学校も関係なくあつまった10人ほどでチームを組んで、ひとつの作品をつくる。その過程の魅力に、のめりこんだという。
植野さん:自分の”好き”を強くもっている人たちばかりで。そんな人たちと一緒に、表現したいものに向けてつくりあげていくのが、楽しくて楽しくて。徹夜もいとわないくらいでした。
映画好きの植野さんは、団体の中でも映像制作を担当。休日はミニシアターに通うようになり、だんだんと映画をつくることに興味をもちはじめた。

そんな中、とあるミニシアターを訪れたとき、偶然上映されていた映画の監督に出会った。当時大学生だったその監督の言葉が、植野さんの心に深く、届いたんだという。
植野さん:「映画をつくると、友達できるよ」って言われたんです。たしかに、一緒にファッションショーをつくったことで、みんなと仲よくなれたことを思い出して。
しかし、中学生のころと変わらず、教室ではひとりの時間が多かった。外には友達がいるとはいえ、本当はさびしかった自分に気がついた。
植野さん:大学でも”好き”が同じ人たちと一緒につくることで、学校の中に友達ができるかもしれない。だから、映画制作を学べる芸術大学に行こうと思いました。
障害を抱えあきらめた
映画制作の道
1年目はコロナに見舞われたものの、2年目から少しずつ大学に通って映画制作を学べるように。想像していたとおり、心を通わせられる友人が何人もできたという。
植野さん:大学で、わたしは幼かったころのわたしに戻れたんだと思います。人と人として友情を育み、みんなでがむしゃらに何かをつくるってことができたんです。

幼きころのリーダーシップを取り戻した植野さん。映画制作やイベント運営などではみずから先陣をきって動いていたと振り返る。
しかしそんな矢先、映画制作中に原因不明の発作が出るように。病院に行くと、パニック障害と診断された。
植野さん:緊張状態になると、発作が出てしまうようになったんです。映画はみんなでつくるもの。自分がいたら迷惑をかけてしまうから、映画制作を仕事にするのはもうむずかしいかもしれないと思いました。
映画制作の夢をあきらめた植野さんは、一般の企業に就職しようと就職活動をはじめる。けれど、面接のような緊張する場ではやはり発作が出てしまい、就職活動もうまくいかなかったという。
植野さん:これは一度障害と向き合わないとなと思い、就労支援事業所で支援を受けながら働くことにしました。
1年ほど就労支援事業所で勤務する中で、働くということに少しずつ慣れていった植野さん。次はやりたいことで就職しよう。そう決意して、彼女がもう一度自分の”好き”を手の中にたぐりよせたとき、そこにあったのは「本」だった。

一度働いたから
自分のことが見えてきた
大好きで、ずっとそばにあった本に関わる仕事がしたいと、大型書店に就職した植野さん。
やさしい同僚と、好きなものにかこまれた仕事で、はじめはやりがいもあった。が、次第に違和感をおぼえるようになったという。
植野さん:大型書店ということもあり、お客さんと今日明日の関係しか築けない感覚があって。お客さんもわたしをいち店員としてしか見ないし、わたしもそういう対応になっていく。それがだんだんとつらくなっていきました。
違和感を無視できなくなり、次の仕事を見つけないまま退職。でも、一度働いてみたからこそ、自分の輪郭が見えてきた。
植野さん:本が好きだから、書店員はいつかやってみたい仕事でした。でも働いてみて、わたしは本を通して人と関わりたかったんだと分かったんです。

”好き”なことをしたい。植野さんのその想いの根底にはいつも、”好き”を通して仲間になりたい。人と関わっていたい。そんな願いがあった。
一度働いたことで、仕事においても「自分らしさを通して人と関わりたい」という願いに、彼女は気づいたのだった。
わたしだからこその
支援のかたち
退職して1ヵ月ほどがたったころ、植野さんがかつて利用者として働いていた就労支援事業所から、支援員として働かないかと声がかかった。
植野さん:支援される側だったわたしが支援する側になるということに、不安はありました。でも、そんなわたしにしかできないことがある気がして、働くことを決めたんです。
支援員として働く中で、「人と関わりたいというゆずれない軸が満たされている」と植野さんはいう。利用者のことを見ているようで、自分もまた見てもらえている。そう感じる場面が日々あるんだそう。
植野さん:わたしが障害を抱えながらも就職したということを目標にしてくれている方がいて。植野さんができたならできるかもしれないって、自分の生き様や成長する姿が誰かの希望になっていること。それがうれしいです。

植野さんは今、イベントで自分の本をセレクトして販売したり、アパレルブランドのモデルをしたりなど、自分の”好き”を通して人と関わる個人活動もしている。就労支援の仕事を続けながら、自分の活動の幅も広げていきたいと語る。
植野さん:これまでつらいこともたくさんあったけれど、それでも人と関わることをおそれずにいたいと思うんです。わたしがいるから大丈夫だよって、いろんな形で伝えていきたいです。
話を聞きながら驚いたのは、植野さんの部屋にあふれている”好き”のほとんどは、幼いころから彼女のそばにあったということだ。
「わたしが”わたしすぎて”、同級生も話しかけにくかったと思う」と笑って振り返る植野さん。「みんなと仲よくなりたい」と願いながらも、「自分の”好き”も手放せない」。その間で揺れる小さな少女はどれだけ心細かっただろう。
でも、どんなにくじけそうでも、自分の”好き”や自分らしさを通して人と関わることをあきらめなかった。だからこそ少しずつ道が開け、いま植野さん自身が誰かの希望になり、そのことが彼女の希望にもなっている。
彼女があこがれた偉人たちも、きっと最初から強かったわけではない。その生き様が、人々の希望になり、その希望から力を得てきたのだ。
STAFF
photo / text : Hinako Takezawa



