現在、神戸を拠点にクリエイターとして活動する、台湾・台北出身の日和(ひより)さん、32歳。
自身のメディア『日和 HIYORI』を運営し、独自の視点と柔らかな色彩で、わたしたちが日々の忙しさで見落としてしまうような日本の風景や瞬間を切り取り、台湾や香港の人たちに向けて発信している。
フォトグラファー、モデル、執筆、企業のSNS運用から観光PRまで……。既存の枠組みにしばられず、複業的に表現を続ける彼女が、神戸という街で見つけた「心の平穏」と、その先に見裾える「未来」について話をうかがった。
「ここではないどこか」を求め続けた学生時代
台北の、教育熱心な家庭に生まれ育った日和さん。両親はともに大学教授。幼いころから家には膨大な数の本が溢れ、常にアカデミックな空気が流れていたという。
日和さん: 父も母も中国文化の研究者で、毎日家と学校を往復するような、端から見れば安定したレールの上を歩む生活でした。でも、わたしは性格が全然違っていて。両親が向き合う研究そのものは尊いものだと思っていたけれど、わたしはもっと広い世界へ行きたいと、小さなころからずっと思っていました。

そんな彼女が幼少期から唯一、自分の世界を表現できる手段として愛していたのが「絵を描くこと」だった。本当は美術系の学校へ進みたい。けれど、厳格な家庭においてその願いを口にすることは容易ではなかった。
日和さん: 両親は、学歴も大事だし、美術だけでは将来が不安という考えでした。結局、親の意向を汲む形で進学校へ入りましたが、心の中ではずっと、自分の好きなものと周囲とのギャップに苦しんでいました。
中学校では、成績優秀者が集まるクラスへ。そこでの日々は、彼女にとって自由をさらに制限されるような感覚だったという。
日和さん:当時、周りの子は欧米の文化に夢中でした。けれど、わたしはアジアの文学や日本のドラマ、J-POPが好きでした。なじむために無理に話を合わせる日々の中で、疎外感のようなものを感じていて。ずっと「わたしのことを誰も知らない場所へ行きたい」と願っていました。

夜9時まで続く厳しい補習授業。出口の見えない閉塞感の中で彼女を動かしたのは、塾の先生がかけてくれた、「未来の自分が、今日の自分を恨まないように、今やるべきことをやれ」という言葉だったという。 いつか自由を手に入れるために、今は力を蓄えるときだ。その日から猛勉強を始め、自らの力で「外の世界」へ出るための準備を始めた。
自分の意思で進む道を選ぶ。
相談ではなく「報告」という決意
進学校での日々を経て大学へ進んだ日和さん。そこで彼女は、かつて諦めた「表現の世界」へと、自分なりのやり方で近づこうと試み始める。
日和さん: 大学に入ってからも美術の勉強は続けていました。でも、中学・高校から専門的に学んできた人たちを目の当たりにして、自分は『描く側』ではないのかもしれない、とも感じて。そこから、作品の魅力を伝える『キュレーター』という仕事に興味を持つようになりました。
表現への情熱を「伝える」という形に変えて育んでいた彼女が、その実践の場として選んだのが、幼いころから画面越しに見つめてきた「日本」だった。
日和さん: 7歳上の兄の影響で、小さいころから日本のドラマや映画を見て育ちました。特に坂元裕二さんの脚本作品のような、文学的で繊細な言葉の使い方が大好きで。中島美嘉さんや大塚愛さんの歌もよく聴いていました。いつか、この言葉が生まれた場所へ行ってみたいと思っていたんです。

自分のやりたいことを実現するために、彼女が選んだ手段は、親を説得することではなく「既成事実」を作ることだった。
日和さん: わたしは、留学も奨学金の申請も、すべて自分で調べて、決まってから親に伝えるタイプなんです。相談ではなく、「行くことに決まったから」という報告。事後報告なら、もう誰にも止められないですから(笑)。一度決まってしまえば、両親も『あ、そうなんだ』と受け入れてくれました。
大学3年生のとき、交換留学生として鹿児島へ。初めて住む日本で感じたのは、台湾の密な人間関係とは違う、心地よい距離感だった。
日和さん: 台湾の人は本当に温かいけれど、初対面で給料や家族の話を聞かれるなど、プライベートに深く踏み込まれることも多いんです。わたしは昔から、その近すぎる距離感にうまくなじめなかった。日本の、適度な敬意を持ったほどよい距離感は、わたしの性格に合っていると感じました。1年間の留学を終えたとき、将来は絶対に日本で働こうと心に決めました。
挫折とコロナ禍を経て
見つけた「自分のための」表現
卒業後、日和さんは「アートの魅力を伝える」という夢をかなえるため、東京・表参道のギャラリーに就職。念願の広報職に就きました。しかし、そこで直面したのは、文化を伝える喜びよりも、数字を追い求める「販売」というビジネスの現実でした。
日和さん: ギャラリーの運営は、やはり作品を売らなければ成り立ちません。わたしがやりたかった『企画して伝える』ことと、実際の『売る』という仕事のギャップに苦しみ、入社してわずか4ヵ月で退職を決意しました。でも、日本での挑戦をここで終わらせたくはなかったんです。

退職後、彼女は「日本で暮らし続けるための道」を必死に探しました。そのとき、たまたま見つけた翻訳の仕事が、次なる扉を開きます。
日和さん: 最初は翻訳をしながら次の仕事を探すつもりだったのですが、そのメディアがちょうど人手不足で、そのまま入社することになりました。そこは、日本の観光情報を海外へ発信するインバウンドメディアでした。アートとはジャンルが違いますが、「日本のよさを海外に翻訳して伝える」という点では、わたしがやりたかったことに通じていたんです。
ベンチャー企業でのメディア運営は、想像以上に過酷でした。取材から撮影、執筆、発信まで、あらゆる工程をひとりでこなす多忙な日々。
日和さん: 3年ほど働きましたが、次第に「会社のために情報を発信する」ということに、またしても違和感が膨らんでいきました。もっと純粋に、自分が本当に「いい」と思ったものだけを、自分の言葉で届けたい。その想いが抑えきれなくなり、2018年に個人でのブログをスタートさせました。

しかし、ようやく自分自身の「表現」を見つけた矢先に、世界はコロナ禍へ。ビザの関係で帰国を余儀なくされた日和さんでしたが、その間も東京で借りていた部屋の家賃を払い続けたといいます。
日和さん: 解約したら、日本との繋がりが完全に切れてしまう気がして。1年間、台湾で家賃を払い続けながら、いつ帰れるかわからない時間を過ごしました。手放したくなかったんです。あの時、執着してでも日本への扉を閉ざさなかったことが、今の自分に繋がっています。
心の居場所を求めて
直感が導いた、神戸という選択
再来日を果たした日和さんが、次なる拠点として選んだのは、東京ではなく神戸だった。
長年暮らした東京の生活は刺激に満ちていて、大好きだった。けれど、あまりにも目まぐるしく変化し続け、膨大な情報と人々が交差する大都会のスピード感に、いつしか心が追いつかなくなっている自分に気づいたという。
日和さん: 東京は本当に魅力的な街ですが、あまりにも動きが早くて。もう少し自分の心を穏やかに保てる場所で、地に足をつけて過ごしたい。そう考えたとき、ふと頭に浮かんだのが、大学時代に一度だけ旅行で訪れた神戸の風景でした。
実はその初めての神戸旅行は、皮肉なことに明石海峡大橋が霞むほどの土砂降りだったそう。舞子まで足を延ばしたものの、靴までびしょ濡れになるような大雨。普通なら「ついていないな」と印象が悪くなりそうな場面だが、日和さんの心には不思議な感覚が残っていた。

日和さん: なぜか、その雨の日でさえも心地よくて。「ここ、もう一度来たいな」というポジティブな余韻がずっとあったんです。大阪や京都は人が多い。あの時の好印象が、人生の転機にすっと浮かび上がってきました。
海や山が近く、ほどよく都会で、ほどよく静か。この街の持つ独特のバランスが、彼女の心をいちばんフラットな状態に戻してくれるという。
日和さん: 今は、神戸の喫茶店に座ってオーナーさんとおしゃべりしたり、常連さんの昔語りにふれたりすることに、すごく感動しています。「自分の居場所」だと思える場所にようやく辿り着けた気がしています。
最高の瞬間はつねに未来にしかない
30代を迎え、日和さんの表情はとても晴れやかだ。
日和さん: 自分は会社勤めには向いていなかったし、ひとつの場所に留まることも苦手。でも今は、写真や執筆、モデル、観光PRなど、複業的に動くクリエイターという生き方が、わたしにとっての「ひとつの仕事」なんだと思えるようになりました。かつて目指したキュレーターという役割も、今は形を変えて実現できているのかもしれません。

インタビューの最後、日和さんは、自分の軸になっている言葉を教えてくれた。
日和さん: 好きなドラマに出てくる、「最高の瞬間は未来にしかない」という台詞が大好きなんです。10代、20代よりも、30代の今のほうがずっと未来が楽しみに感じられる。何が起きても、これからの生活を、おもしろがるしかない。そんな感覚です。

