-タケナカのこれ思てんねん。-第5回『理解について思てんねん』
こんにちは。
ことば部部員のタケナカと申します。
今年で二十代も折り返し地点にきました。昔から読書が好きで、基本的にどんな本も読みますがテーマが重ための本が好きです。細かいことが気になり、つい言い過ぎて母から小姑と呼ばれた事があります。
こんな私が普段うっすら思っているあれやこれを徒然に書くエッセイ「タケナカのこれ思てんねん。」毒にも薬にもならないけど「なるほどなぁ」となるかもしれない、超プラシーボなエッセイです。
募集している、みなさんの「思てんねん」なこと、今回もたくさんの投稿をありがとうございます。その中で気になったコメントをご紹介。
こーへいさん
「自分のことをわかってほしいという気持ちはあるが、「あなたはこうだから。」というように勝手にわかった気になってんなよという気持ちもある。」
第五回は理解について僕の思うことを。
今回もひとつ、お手柔らかにどうぞ。
「心の声を聞かせてよ」
人は誰しも、他人の気持ちや心を知りたいし覗きたい。『自分のことをどう思っているんだろう』『ああ言ったけどこう思われたらどうしよう』『あの人何考えてるかわかんないよね』などなど……フィクション、ノンフィクション問わずよく聞くフレーズたち。
グリム童話の代表作「白雪姫」でも、最高権力であろう王妃が「この国で一番美しいのはだぁれ?」と魔法の鏡に尋ねている。醜美も含め他人にどう見られているのか、古今東西わたしたちの奥底に眠る不安は大して変わらないのだろう。
と、まぁなんだか偉そうに書いたが、かくいう私も他人の心なんて全然読めないし、人からどう思われているのか不安でビクビク怯えている。やっぱり、みんなから愛されて良いやつって思われたいし、チヤホヤされたい。自分より好かれてそうな人が近くにいると無性に焦るし、人付き合いに疲れた帰り道には冬空の下「まぁ、俺は誰にも愛されなくても、孤独を愛してますから……」とハードボイルドぶることもたまにある。(自分ってキツイかも!とうっすら思っていたが、明記するとかなりだ!)
今の世の中、好かれるとか嫌われないとかも大事だが、それよりも「自分の心が傷ついてる」ことを自分自身に悟らせないことが大切になっているような気がする。
「理解という罠?」
では、相手のことを分かったり、はたまた自分のことを分かってもらうというのは可能なのだろうか。そんなことは絶対できないと思う。自分の感情すらまともにハンドリングできない日があるのに、ましてや他人のことを分かりきるなんて100%不可能だ。(というか、忙しすぎる日々の中でそこまで気遣うなんてまっぴらごめんである、すまんね。)
土台無理なはずなのに、できてしまうと勘違いするのはなぜか。それは、すごく高尚で言語化できないような概念的な行為のはずなのに『理解』の二文字で表現できてしまうからだと思う。「相手を知る→心に落とし込む→こちらを開示する→落とし込んでもらう」このラリーを続けることでお互いを分かりあうはずなのに、その間に存在する大切な行為をぎゅっと縮めて漢字で『理解』と表現してしまうから、途端に誰でもできる簡単な行為に見えてしまう。だから、前述したように『自分のことをどう思っているんだろう』『あの人何考えてるかわかんないよね』となってしまうのではないだろうか。やはり、言葉を扱うには意味の芯をきちんと捉えなければいけない。
結局「他者理解」と言っても所詮は己のラベリング次第である。相手の要素を見つけるたびに書き出しては、ペタペタと心のなかで貼っていくしかない。そのポストイットの量と細やかさが、即ち相手のことを知る深さに変わるのだ。
まずは自分自身を含めて改めてラベルを見直してみるのはどうだろうか。「タケナカ=いちいちウルサイ」とは書かないでほしいけど。
好きと嫌いとマイルール、自我と自意識にがんじがらめのぐるぐる人生。
そんな中で普段思っていることをポツポツと書いていきます。
ぜひ、あなたの普段思っているけどなかなか言えないなあ、なことも教えて下さい。
ご投稿はこちらから。
次回の「タケナカのこれ思てんねん。」もどうぞお楽しみに。

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