日本のファッション界を牽引してきたデザイナー「吉田ヒロミ」が、オートクチュールのノウハウを、気軽に着られるデイリーウェアに落とし込みました。「しなやかで美しい女性」をコンセプトにしています。

私が見た60年代のパリ。


パリのメゾン華やかなりし1965年、日本のファッション界にとってエポックメイキングな出来事がありました。「ジバンシィ」のオートクチュール縫製スタッフとして、日本人が初めて採用されたのです。「うちは実家が洋服の仕立て屋で、小さいころから家の仕事を手伝っていたので、縫製の技術は鍛えられていたんです」そう、その女性こそが吉田ヒロミさん。当時24歳でした。「『VOGUE』など海外雑誌を眺めて生地やデザインは知り得ても、内側がどうなっているのかわからなかったから、見てみたいって思ったのが理由のひとつ。実際に入ってわかったのは、服に使う裏地などの副資材が全く違っていたこと。もう、天から地に落ちるくらいの衝撃でしたね。」さらに驚いたのは、フランス人たちのファッションに対する関心の高さでした。「日本だと語るのは業界の人だけだけど、フランス人ってそれこそ郵便局に勤めている女性や、八百屋のおばちゃんが『今年のサンローランはこうよよね』ってお茶飲みながら話題にする。絵画を愛でるような感覚でファッションを見てるの。彼女たちは、小さいころから美術館などでアートを見てるわけでしょ?美意識が高いんです」。

そこで4年いた後、米「Harper's BAZAAR」誌のスタイリスト(撮影用の洋服を作る仕事)として1年弱務めた後、日本に帰国。クチュールから始めたところたちまち評判となり、1972年プレタポルテブランド「イグレク」を発表。ターゲットとしたのは、吉田さんと等身大の、働く女性。「“キャリアウーマン”という言葉をハイ・ファッションで使い始めたのは私なんです。いわば、自分のお金と意思で洋服を選ぶ人たち。当時の日本は、まだお母さんやご主人の好む服を着る人たちも多くいましたから」。特に人気を博したのは、35センチ丈のミニスカートや、ホットパンツ×ジャケットの組み合わせなど、「親に『何それ?』と言われるような洋服でしたけど、そんな中にも私はどこかにかわいらしさを取り入れるのが好きでした」。

オードリーと、日本の女性のこと。

今も変わらず、吉田さんのクリエイションの源泉であり、インスピレーションをかき立ててくれる存在が、オードリー・ヘップバーン。「彼女は私の永遠のミューズです。当時のハリウッドでは、ナタリー・ウッド、マリリン・モンロー、ヴィヴィアン・リー……有名な女優さんはたくさんいたけど、みんなグラマラスなイメージで、その中でもとびぬけてファッション的で、一番洋服を美しく着こなしていたのが彼女だったんです。何もを着ても素敵だった。また彼女の生き方も好きですね。変にセレブっぽくもなくて、淡々と、気持ちよく生きたって感じがして。だから私もその道を行きたいなって。だから一生、オードリー・ヘップバーンの後ろをついていくって感じなんです」。
ゆえに最初は、日本の人に向けてどういう服をつくりたい、という思いはなかった吉田さん。それが齢を重ねていくうち、自分のまわりの人をきれいにしたい!という思いが芽生えてきたとか。「少しの意識の変化で、この世代の女性たちは、もっと美しくなれる、そのお手伝いができればと思うんです」。

だから私は“メイド・イン・ジャパン”

<今までも、そしてこれからも。メイド・イン・ジャパンにこだわっていきたいという吉田さん。「中国にも今や技術が上の工場があるかもしれません。だけどそれとは違った意味で、私は国産でやり続けたいんです」。その理由として、フランスで働いた経験が大きいと言います。「私はあの時、メイド・イン・フランスの商品を作ってきた、という思いがあるんです。私を受け入れて、働かせてくれて、そこでたくさんの大切なことを教えてもらった。だから、お金の計算と効率のことだけで、誇りを失って、ほかの国に持って行ってしまうと、日本の繊維産業は衰退してしまいますよ。だからここは、誰かがふんばってでも、国産にこだわってやっていかないと。だから、高価なイブニングドレスを作る一方で、フェリシモのシャツを作ることに意味があるのかなって」。
「自分を知るには、まず他人を知らないとね」。フランスから始まったキャリアは、日本の、それも身近にいる女性たちをきれいにしたい、という思いに結実してヒロミヨシダの服づくりに生かされています。

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