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東北だより

高橋 正人さんからの東北だより 生きるには未来が大切。それを実感しています。

第一話 全3回
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取材:板元 義和(シュープレス

自宅も会社も流されたが、家族や社員が無事だったのが救い。

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○3.11の震災の時はどちらへ?

会社にいました。激しい揺れがずっと続いたでしょ。びっくりしたけど、何もできないからそのまま。揺れがおさまってから、社員を全員自宅に帰して……。津波警報が出ていたので、自分たち(奥さんと一緒に)も避難しました。その後、あんな大きな津波が来るなんて全然考えてい なかったから、社員のことを自宅に帰したけど無事に帰れたのかどうか、ずっと心配でした。ひょっとしたら、自宅に帰さずにみんなそろって高台に避難した方がよかったのかな、と思い悩みました。それで津波のあと、ほとんどの社員の安否はわかったんだけど、最後のひとりがどうしてもわからな くて。1週間もたっていたから、いよいよダメだったかな、なんて考えていたころ、私のいた避難所にその社員がいてびっくりしました。どうやら震災後ずっと私と同じ避難所にいたようなんです。あの時は泣きながら笑いました。

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○フクロウやサシェ作りを始めたきっかけは?

震災後、妻と一緒に軽トラックに乗って被災地へ救援物資を運んだりしていました。知人には「自分が被災して家も会社もなくしたのに、そんなことしている場合か」なんて言われたりもしたんだけど。でもね、復旧・復興って、簡単じゃないし、これだけ大きな被害だもの、自分だけがよくなったって全然話にならないと思うんですよ。やっぱりみんなでよくなっていかないと。だから、社員を呼び戻してできる仕事をずっと模索していました。そんな時、何かグッズでもみんなで作ったみたら? という知人からの提案がありまして。それで妻がなにげなく「フクロウなんかいいんじゃない」っ て。私は驚きですよ(笑)。フクロウって何? そんな感じです。

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○でも作り始めた?

妻が言うには、フクロウは縁起がいい鳥だしゴロもいい。何より首が回るから「借金で首が回らない」そういう状況にもならないんじゃないか、そんなこと言うわけです。そこまで言うなら、やってみるかと。でも、私は漁師と電子部品くらいしかやっていませんから、すぐにフクロウなんて作れません。私だけじゃなく、呼び戻した社員たちもそう。みんなで悪戦苦闘してフクロウを作り始めました。

生きる喜び、仕事のできる喜びそれを今、強く感じています

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○その後、フクロウの製造はどうなりました?

最初のころは、フクロウにすら見えない。上手にできない社員がいても、みんなでカバーしてふんばってね。そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと形になってきて、これだったら商品になるかな、と思えるようになってから販売を始めました。ほんとに細々と始めたわけですけど、口コミで広まったのか、地元のテレビ局や新聞社が取材に来てくれて。そうしたら、思っていたより注文がありました。すると今度は材料が足りない。布はいろいろな方から支援していただいてたくさんあったのですが、フクロウの中に詰める綿がない。この近辺じゃ店も被災して買えないですから、会社に 残っていた座布団の綿が、どんどんフクロウに化けていきました。今は函館空港にも置いてもらえるようになって、本当にありがたいです。

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○どんな気持ちで作っています?

フクロウもサシェもそうですが、私らはプロの縫い子さんじゃないですから、とにかく一生懸命作るしかない。ひとつひとつていねいに手づくりしています。社員も私も、震災後半年くらい仕事がないつらい時期が続いた。そうした時に全国から多くの支援をいただいています。その恩返しという意 味も、今のこの仕事には込めています。仕事ができることの喜び、生きていることの大切さ、それを感じられるのがみんなうれしいんですよ。それに注文が増え、仕事が増えていくことはハリ合いも出るしね。

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○電子部品会社の再開も決まったそうですが。

先日やっと決まりました。この近くに仮設の工場を建設することになっています。今、測量とかをやっています。これは公的な補助を受けて始めるんですけど、5年間、使えることになっています。そちらの本業が始まったら、今のプレハブの社屋ではみやげ屋兼飲食店をやるのが私の目標なんですよ。前の社屋の時にも、2010年の11月から小さな居酒屋を会社の横に作って、私が切り盛りしていました。大漁旗を飾ったり、竹を飾り付けたり、全部自分でしてね。おもしろかったなあ。けっこう人気で、お客さんが集まり始めていた時に津波で会社もろとも……ね。だから、本業をや って飲食店もやるのが私の今の目標です。

復興のスピードに一喜一憂せずに進もう。

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○今と震災直後、心境は変わりました?

……何ていうのか、震災直後からずっと避難所にいたでしょ。今後のことがまったくわからない。不安だらけですよ。まず家も会社もなくしているから、生活の土台そのものもないわけですし。今考えると、いろんな意味で落ち込んでいたんだろうね、人と話す時でも、相手の目を見ら れなかった。

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○それはどの時点から今のように変わりました?

やっぱりフクロウ作りを始めてからですね。どうなるかわからないけれども、とりあえず何か仕事をする、そうしていると生活というものが少しずつできてくるんですよ。それで現実的な考えや行動も起こせるようになってきて、あとは徐々に自分の中に、未来が描けるようになってくる。

○未来というのは?

先のことを考えられるというのが、人にはとても大切なんですよ。今回の震災で、私はそれまでの生活で築き上げた家も会社も失った。そうなると、とたんに自分の未来が描けなくなる。これはつらいです。ふだんの生活で意識していなくても、自分の将来に希望や目標があるからこそ、人は安心し て暮らせるんだと思いますよ。今の私は、震災直後からするとずっとしあわせです。家族や社員は無事で仕事もしているし、会社の再建にもめどがついた。確かにゼロ……いやマイナスからの出発なのかもしれませんが、それでも先の目標をちゃんと立てられるようになった。

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○前向きになれた?

いつまで落ち込んでいてもしょうがない。確かに復興を考えると、南三陸はまだまだ遅れていると思います。この周辺に人が戻ってきてくれるのかどうかさえ、わからない。でもいろいろ考えてもしょうがない。自分の目標を定め、毎日すべきことをする、そうしていくことがいちばんの復興だと思 います。町の復興が早い遅いで一喜一憂していては身がもたない(笑)。だからそれはそれ。そう吹っ切れたというのがいちばん大きいかもしれません。これからも本業と手仕事の両方をがんばっていきますよ。

(インタビュ ー後の感想)

津波で家も会社もなくし、直後は相当落ち込んだと話されていた高橋さん。ご自身の性格をうかがうと「無口」とひと言。「なぜなら無口は口が6つ。昔からおしゃべりなの(笑)」。持ち前の明るい性格で社員を引っ張り、会社再建に向けがんばっている姿が印象的でした。

(次回更新内容)

「アトリエ自遊学校」「プランニング開」を主催し、子どもミュージカルのプロデュースなども手掛ける新田 新一郎さんにインタビュー。今回、各地の被災地で公演した「こどもスマイルミュージカル  ~明けない夜はないから~」のプロデュース・脚本・演出も新田さんが担当している。

宮城県・南三陸町・高橋 正人さん

宮城県・南三陸町・高橋 正人さん
中学校卒業と同時に船に乗り、遠洋漁業などに出る。30代前半で家を建て、40代で船を下り、生まれ故郷の南三陸町で電子部品会社を起業。しかし、2011年3月11日、東日本大震災の津波により、自宅も会社も全て流されてしまう。震災後の9月、仕事のない状況をなんとかしようと、妻のきみ子さんと話し合い、縁起のいいフクロウのグッズを作り始める。現在、以前の社員も呼び戻しプレハブの社屋でグッズ製造に励む。2012年春から、フェリシモのサシェ作りもスタート。念願だった電子部品会社も、近々仮設社屋で再開予定だ。